ケータイ辞書JLogosロゴ 油良(近代)


山口県>橘町

 明治22年〜現在の大字名。はじめ日良居村,昭和30年からは橘町の大字。明治24年の戸数376・人口977(男469・女508),寺院1,学校1,船39(徴発物件一覧)。明治19年,伊予大洲から繭の仲買人がやってくるようになると,繭が換金作物として重視され,養蚕農家が増えた。同28年家室西方村の下田に蚕業組合支部ができた。同32年には県蚕業奨励会大島支部が下田に設立され,養蚕製糸の伝習が開始された。同37年寿源寺再建。日露戦争を境にして養蚕の伸びは目ざましく,養蚕農家は日良居村以東に密集していた。昭和5年には春繭相場は前年の半分以下に暴落。この頃から養蚕農家は,ミカン植栽へ移行した。同37年,農業構造改善事業により大規模な水田転換埋立造成工事が始められ,同39〜41年の水田転換農家27戸・面積588ha・事業費1,406万円,ミカン植栽農家22戸・34ha・171万円であった。ミカン農家の収入も,1kg100円で反当たり50万円の粗収入があった。同39年,日良居農協関係の生産量は5,900tであったが,同41年には7,000tを超えた。同43年増産本位から品質本位にかわり選果も厳しくなった。同年,日良居農協では選果場を新築した。建物は2階建て延面積3,137m[sup]2[/sup],建設費7,090万円,オートメーション選果機を備え,処理能力1時間当たり25tである。同47年は空前の大豊作で日良居農協で1万900tを生産。同年の栽培面積は335ha。同49年からは温州ミカンから伊予柑・ネーブルなどへの一部切換えが奨励された。同52年改植促進,高接ぎ更新事業がミカン栽培の急務といわれ,特に宮内伊予柑への高接ぎ更新が推進された。昭和2年正八幡宮再建。同52年,社会福祉法人山口県社会福祉事業団が経営する精神障害者収容施設山口県たちばな園が設置された。収容定員60人,職員30人。世帯数・人口は,昭和30年158・814,同55年166・540,同61年3月末168・487。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7426822
最終更新日:2009-03-01




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