ケータイ辞書JLogosロゴ 吉田村(中世)


山口県>山口市

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。周防【すおう】国吉敷【よしき】郡のうち。吉田郷とも見える。徳治3年2月16日付藤井光永譲状(平清水八幡宮文書/地名淵鑑)に「恒富保平清水八幡宮並吉田村田(ママ)諸社神主職」と見えるのが初見。貞応3年5月29日に平子重経(沙弥西仁)から恒富保を譲与された重継は,弘重へ恒富保地頭職を,重教へは吉田村地頭職を譲ったと考えられる(三浦家文書所収三浦氏系図/大日古)。貞和4年12月29日,三河大介設楽大夫は「吉田・恒富両郷地頭職」を勲功の賞として,足利尊氏から宛行われている(注進案12)。室町期の応永21年12月21日地頭の平子重則は「恒富保吉田郷高蔵寺」内の熊野霊宮の洪鐘を鋳造したことが,その銘文によって知られる(同前12)。文明3年4月15日付大内政弘寄進状によれば,「吉敷郡吉田村恒富保両所」(寺社証文19)という表現に見られるように,恒富保とともに当村は「両所」と把握されていたことが知られ,両所合わせて27石余の妙喜寺領があった。以後永禄12年6月8日,毛利輝元は昌洞和尚に対し妙喜寺領を安堵しているが,その中に「吉田村并恒富保」が見える(注進案12)。また天正5年閏7月13日にも毛利輝元は妙喜寺領の所々を安堵しているが,その中に「吉田村内拾三石四斗足〈田数肆町〉」が記されている(寺社証文19)。「注進案」12は,平清水八幡宮が吉田郷にあったと記しているが,弘治2年5月1日付の大内義長補任状写(寺社由来3)に「吉敷郡吉田八幡宮宮司職」と見える八幡宮を平清水八幡宮とみれば,吉田に平清水八幡宮が存在したことになり,「恒富保平清水八幡宮」という記述と併考して吉田村を「恒富保内の地」(地名淵鑑)とみる見方もある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7426858
最終更新日:2009-03-01




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