ケータイ辞書JLogosロゴ 浅川村(近世)


徳島県>海南町

 江戸期〜明治22年の村名。海部郡のうち。徳島藩領。「旧高旧領」では村方と浦方に分け,浅川村の高は960石余ですべて蔵入地とある。なお寛文4年の高辻帳では,浅川浦の枝村に佐波瀬村・粟野村・新川村・大田村・伊勢田村が見えるが,このうち「海部郡村誌」では浅川村の字地として,鯖背・粟ノ浦・伊勢田などが見える。「阿波志」では,耕作地は陸田16町2反・水田63町8反,高787石,戸数128・人数383と見える。また文化9年の浅川村棟附帳では,家数202うち百姓170軒,人数876うち役負担者236人,馬84・牛8(海部郡誌)。万延元年林目付満石兵太は命により海岸筋において金鉱を調査中,文久2年焼尾谷に銅鉱を発見し,但馬銀山から鉱夫を雇うなどして採掘にかかったという(同前)。明治4年までは藩営であったことから,その坑道は阿波坑と称されたという。享和元年には,伊勢田の百姓30人が海部郡代佐和滝三郎の圧政にたえかね,国境を越えて土佐の国へ逃げるという逃散事件が起きている。神社に天神社がある。同社は慶長年間津波で流亡し,寛永10年に再建された。なお現在の社殿は大正14年の新築。同社境内には安政地震の碑がある。その碑文によれば,安政元年11月4日辰刻に揺れがあり,巳刻頃に潮が往還にあふれ,翌5日大地震が起こり,高さ3丈ばかりの大潮が矢を射るような早さで浦上カラウト坂まで浸入と記される。ほかに,伊勢田の大山に脚咋別一族が宍喰塩深の大山神社を分祀したという十二所神社(大山神社)や,稲の往還沿いに大歳神社がある。寺院は,片山の山麓に曹洞宗永平寺派丈六寺末正福寺,堂元の山麓に真言宗古義派高野山金剛峰寺末誓願寺,鯖瀬に正福寺末行基庵(鯖大師)がある。鯖大師伝説が知られる。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。「海部郡村誌」によれば,税地は田100町余・畑21町6反余・宅地5町4反余・山林(旧反別)726町7反余,内妻村に飛地があり田3反余,明治9年調の戸数193・人数966,200石以上500石未満日本型船2・艀33,牛9・馬73,物産は米・麦・大豆・小豆・甘薯・粟・蕎麦,製造物は苫とある。明治8年浅川浦から浅川小学校が村内大田へ移転し,同15年には大歳神社の傍らに移った。なお同校の明治9年の生徒数55(海部郡村誌)。同22年浅川村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7426941
最終更新日:2009-03-01




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