ケータイ辞書JLogosロゴ 穴吹荘(中世)


徳島県>穴吹町

 南北朝期〜室町期に見える荘園名。美馬郡のうち。穴吹山とも書く。正平24年7月8日の西山兵庫助宛右馬助奉書に「穴吹庄内葛雲之三間,為料所可令知行」とあり,祖谷山【いややま】の西山兵庫助に当荘内の葛雲の3間が与えられている(西山文書/徴古雑抄2)。この文書は袖判はないが,南朝方の指揮者粟野三位中将の意を奉じて発給されたものと考えられる。南朝方は正平18年,一宮城が北朝方の手に落ちてからは,守護細川氏の勢力の伸張に伴い,西山氏などの祖谷山の山岳武士団もまもなく康暦年間にはこれに屈している。当荘は室町期には細川氏一族の所領となっており,応永7年8月24日の管領畠山基国奉書では,「穴吹山半分」を細川頼長へ安堵したことが知られる。頼長は管領細川頼之の弟で頼之のあと阿波の守護となった頼有の子息であり,父の所領を受け継いだものであろう。また,応永15年3月21日の中畠三位法橋頼慶借銭状では,中畠頼慶は4貫文の借銭を1か月100文につき5文の利息をつけて返すことを約束し,「中畠ちうたいそうてんのあわのくにあなふきのかつさのあさりか門弟ひきたんな」を質として,9月を過ぎて返済できない場合には質流れを認める旨を約束している(米良文書/熊野那智大社文書1)。それから約半年後の応永15年10月24日の旦那職売券には,「なかくうりわたす阿波国穴吹之旦那事」とあり,中畠頼慶と嫡子丑法師丸とが連署して穴吹の旦那を小坂三郎に5貫600文で売り渡している(同前)。さらに,享徳2年5月15日の旦那売券では,「色川小坂 三郎左衛門」は中畠三位法橋から買得した穴吹の旦那を5貫200文で実報院へ売り渡している(同前)。また康正2年9月27日の旦那引注文には「阿州美与(馬)郡於穴吹庄小山民部僧ひきたんなの事」と見える(二階堂文書/徴古雑抄2)。なお元亀3年正月の「故城記」には「穴吹城 細川掃部頭」とあり,穴吹城は細川真之の居城であった(徴古雑抄3)。また江戸期の「阿波志」によれば,穴吹塁のほかに穴吹谷口には篠原三河守の山口塁があったといい,「富永荘 即穴吹村」と見える。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7426960
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ