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- 阿波国(古代)とは
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![]() | 阿波国(古代) 旧国名大化の改新前の粟国と長国の地域と考えられ,律令制下では,南海道に属する上国であった「延喜式」国名は前身である粟国の国名に由来するものであるが,国内に粟を多く産したことに因むという「和名抄」によると,板野郡・阿波郡・美馬郡・三好郡・麻殖【おえ】郡・名東【みようどう】(名方東)郡・名西【みようざい】(名方西)郡・勝浦郡・那賀郡の9郡を管掌三好郡は貞観2年に美馬郡から分離して成立(三代実録)名東郡・名西郡は寛平8年に名方郡が東西に分割されて成立(類聚三代格)従って奈良期から平安初期頃の阿波国は7郡であったと見られる「和名抄」に見える郷は板野郡が川島・井隈・津屋・高野・小島・田上・山下・松島・全(余か)戸・新屋の10郷,阿波郡が高井・秋月・香美・拝師の4郷,美馬郡が蓁原・三次・大島・大村の4郷,三好郡が三縄・三津・三野の3郷,麻殖郡が呉島・忌部・川島・射立の4郷,名西(名方西)郡が埴土・高足・土師・桜間の4郷,名東(名方東)郡が名方・新井・賀茂・井上・殖栗・八万の6郷,勝浦郡が篠原・託羅・新居・余戸の4郷,那賀郡が山代・大野・島根・和泉・坂野・幡羅・和射・海部の8郷の計47郷であるが,板野郡川島郷は高山寺本だけにしか見えない平城宮出土木簡の中には「和名抄」に見えない那賀郡林郷・名方郡石井郷の郷名がある平安末期の「伊呂波字類抄」には郷名は不明ながら,阿波国には54郷があったことが記され,平安期に相当の人口増加を見たことがうかがえる国府は名方郡(東西分割後は名東郡)名方郷に所在現在の徳島市国府町府中【こう】に比定され,当地の大御和神社および真言宗大坊付近が国衙跡と見られているが,明確な遺構は確認されていない阿波の国司のうち能吏として知られているのは,承和13年,介に任じられた山田古嗣で,当時,阿波・美馬両郡が常に旱災に遭うことを憂え,灌漑に努めたと云われ(文徳実録),三好郡池田町の古池,阿波郡市場町大俣の上の池,板野郡土成【どなり】町の浦の池が古嗣によって築かれたと伝えられる各郡には郡衙が設置されて,在地の有力者が郡司に任じられた郡衙の所在地はほとんど明らかでないが,現在の板野郡土成町郡(旧阿波郡内)・美馬郡美馬町郡里・板野郡板野町郡頭はそれぞれ阿波郡・美馬郡・板野郡の郡衙所在地と推定される律令制下の軍事制度である軍団は,現在の徳島市国府町延命に「段の原」の地名が伝わることから,当地が軍団の所在地ないしはその調練場であったとする説もある軍団制崩壊後に郡司の子弟で構成された健児制の下では,30名の健児が常備された(延喜式)また,当時阿波国には「甲二領,横刀七口,弓廿張,征箭廿具,胡籙廿具」の武具の調整が義務づけられていた(同前)「三代実録」貞観4年5月13日条に「阿波博士従八位上刈田首今雄」が見え,阿波の国学の存在を知ることができるこの刈田首氏は讃岐国刈田郡出身で,当時,阿波国の国博士に就任していたものであろう古代の官道である南海道が淡路島から「牟屋海」(平城宮出土木簡)を渡り,板野郡へ上陸同郡の大坂越から讃岐国へ抜けていた板野郡内には石隈(濃か)【いその】駅・郡頭駅が設けられた(延喜式)石濃駅は現在の鳴門市大麻町大谷字石園,郡頭【こおず】駅は板野郡板野町大寺字郡頭にそれぞれ比定される「続日本紀」養老2年5月7日条によると,この時伊予国を経て土佐国に至る官道が迂遠であったため,阿波国を経て土佐国に至るルートに変更されたまた,延暦15年にも,南海道の新道が開かれ,これに伴って同16年に阿波国・伊予国・土佐国の駅の改廃が行われた(日本後紀)国府へは郡頭駅から南下し,吉野川を渡河する道が開かれていたのであろうなお,承平5年に,土佐国司の任を終えて帰京の途次阿波国を通過した紀貫之は海路阿波国沿岸を北上している(土佐日記)この時にはすでに阿波国の海岸線に沿って土佐に至るルートが成立していたことがうかがえるが,このルートが海難の危険に加えて海賊の被害も多かったことがわかる条里制は吉野川の流域,県南部の平野部に施行され,現在の三好郡三加茂町・板野郡内・名西郡石井町および徳島市の国府町域・多家良町域,小松島市の坂野町域,阿南市の大野町域などに比較的良好な遺構・遺称を留めるしかし,当国は農民に班給する口分田が少なく,山城国(京都府)とともに陸田を班給せざるを得なかった(続日本紀)神護景雲元年には「王臣功田位田」を収公して口分田に当てたという(同前)「日本後紀」天長7年4月5日条に「阿波国水田一十町二段,混雑陸田,班民口分田,堭処岸高,無便導水也」と見え,導水の便が得られない土地が多かったために,水田10に対し,陸田を2の割合で農民に班給したことがうかがえる国家による開墾の奨励を受けて阿波国内でも,特に吉野川や勝浦川などの下流域を中心に開発が進められた奈良東大寺が天平勝宝元年に吉野川下流域の低湿地を占野して,新島荘を成立させたのもそうした動きの一環と見られる(東大寺文書)天平5年のものと見られる阿波国大帳断簡(正倉院文書)に「都合今年計帳新旧定見戸伍阡陸拾捌」とあり,当時,国内の戸数が5,068戸であったことがわかる古代阿波国の氏族として記録に見えるのは,佐伯(部)氏(日本書紀),粟凡直氏・長直氏・忌部氏(続日本紀),阿曇(部)氏・壬生氏・中臣(部)氏(類聚三代格),漢人氏(正倉院文書),服部氏・矢田部氏・木部氏・建部氏・物部氏・海部氏・秦氏・雀部氏・上主寸氏・家部氏・飛鳥部氏・久米氏・葛木氏・日下部氏・忍海氏・軽部氏・牟佐氏・息長氏・錦部氏・品知氏・秋月氏・下主寸氏・許世部氏・伴氏・宗我部氏(板野郡田上郷戸籍断簡/正倉院文書),波多部氏・文氏・百済(部・公)氏・生田氏・山人部・丈部氏・鴨部氏(平城宮出土木簡),海直(大和連)氏・椋部(曽禰連)氏(三代実録),播磨氏(賀茂別雷神社文書)などであるこのうち粟凡直氏・長直氏は大化の改新以前の粟国・長国の国造家の系譜に連なる氏族で,粟凡直氏は名方郡・板野郡・阿波郡を中心とする地域に多く居住し,長直氏は勝浦郡・那賀郡地方に多かったとみられるまた,忌部氏は麻殖郡を中心とする地域に居住し,一族の中には忌部連(宿禰)須美のように従五位上という高い位に叙せられた人物もいた(続日本紀)なお,以上の氏族の大半はその姓からみても中央豪族および朝廷の諸機関の部民に出自を持つと考えられ,大化の改新以前には多くの品部・曲部が置かれたことが推測される「続日本紀」や「三代実録」には阿波国が飢え,租税の減免・賑給を行った記事が少なからずみられ,当時の阿波国の劣悪な生産性を示している当時の産業としては農業が中心であったが,阿波国では既述のように慢性的に口分田が不足していたために,他の国に比して畑作の比重が高かったようである主な畑作物としては大豆・小麦,加工原料としての桑・綿・胡麻・紅花などがあったが,広大な山間地域では焼畑によって粟・稗なども生産したとみられる特に古代の阿波国を特徴づけているのは桑の栽培に伴う養蚕と生糸・布などの製造である和銅元年には綾錦を織らしめた国のひとつとして阿波国が見え(続日本紀),天平4年10月付の忌部為麻呂戸調黄絁銘によれば,麻殖郡川島郷の戸主忌部為麻呂が戸調として黄絁1匹を貢納している(正倉院所蔵/寧遺下)また,東大寺の封物に糸・養絹があてられ,「延喜式」に阿波国が上糸国に数えられていることなどからも,古代の阿波国で養蚕が盛んであったことが明らかとなる「延喜式」神名帳に登載された神社は46社を数えるが,現在では伝承などが失われて廃社となっている神社が少なくない |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」