ケータイ辞書JLogosロゴ 飯之尾村(近世)


徳島県>鴨島町

 江戸期〜明治22年の村名。麻植【おえ】郡のうち。飯尾村とも見える。徳島藩領。村高は,寛文4年の高辻帳,享保元年の高辻帳,天明7年の高辻帳とも764石余,「天保郷帳」884石余,「旧高旧領」では1,724石余うち蔵入地898石余,残り825石余は藩士16名の知行地。慶長年間の飯尾氏の被官岡田家の文書に「飯尾千石」と見え,各棟附帳では,享保5年は家数198・人数432,高878石余,文化4年は家数257・人数1,080,馬76・牛16(鴨島町誌)。また文化10年の上納米878石(同前)。村内東部の南山麓,高ノ原と呼ばれる台地には,室町期に福生寺(俗称岡寺)があったが,慶長3年川田村へ駅路寺として移転されたため,その後は無人の野となっていた(阿波志)。寛永初年頃,飯尾堀に居住していた深見又太夫秀正の嫡男四郎左衛門が同地を開拓して移り住み,その後,一族の協力もあって開拓地は広がり,分家もでき,移住者も増え集落を形成,畑地も4町に達した。江戸期には藍作が盛んで,谷水を利用して水田も多く,全体的に村は豊かで分限者・大地主も多数いた。ことに石原・麻植・工藤・深見・富樫・多田・河野・岡田といった,かつての豪農・地侍・文人・大地主を祖とする名門が村の大半を占めて,格式の高い村落としても知られていた。しかし天明2〜5年の連年の凶作により当村民も例外なく餓死寸前に追い込まれ,年貢を納めるどころではないため,農民は藩主への強訴を協議したが,その時に百姓弥五郎は,多数が徒党を組んでの行動は,多くの犠牲者を出すとして,自分への一任を村人に説き天明5年の秋,藩主治昭が国内巡視で当村を通過した時,村民の窮状を直訴した。弥五郎は直訴の罪で捕えられ,鮎喰【あくい】川原ではりつけに処された。村人はその義侠に感じて死体を持ち帰り,ねんごろに葬って墓を建て,義民弥五郎と語り伝えた(鴨島町誌)。なお直訴によって,村に恩恵が得られたかは不詳。鎮守は南山麓に座す天神社で,広い社叢と境内を有している。同社は,麻植郡神社明細帳によると,「菅公(菅原道真)築紫へ御左遷の時,当村へ着当。社を拝し笏を納め給う故,菅公副祭せり。依って天神社と公称す云々」と見える(麻植郡郷土誌)。なお境内の碑文には「道真公の祖父清公,嵯峨天皇の朝阿波国司となりて在任中,当地へ詣で笏を納め給う」とある。飯尾城跡には飯尾神社が座す。同社は寛永6年村人によって再建立され,飯尾常房を祀る。山ふところに藤井寺がある。同寺は四国霊場八十八か所第11番札所で,寺伝によると弘仁6年の開基といい,本尊の釈迦如来は国重文。報恩寺は阿波西国三十三か所第29番札所で,もと東山村樋山路にあり,そのため火山寺とも呼ばれた。縁起によると,弘仁年間に空海が迷い子を救い,その子供のために愛染明王を刻んで村人に託したが,その子が長じて僧侶となり,樋山路に一寺を建立して,大師や村人の恩に報いる意味で報恩寺と号したという。鎌倉期に現在の飯尾の地に移されたといい,土地の豪族で麻殖荘西方総領地頭の飯尾家の菩提寺ともなった。境内には正和5年・元亨元年・応永4年記銘の板碑が保存されている。また持福寺はもと阿川村上河内に,弘法大師が山岳寺院として建立したと伝え,天正年間に火災にあい,慶長末年頃飯尾の地へ再建立したという。本尊阿弥陀如来は平安末期〜鎌倉初期の作とされる。なお当村の庄屋は全員を明らかにできないが,文化年間から工藤八左衛門が大庄屋となっており,その後文化4年の史料に肝煎工藤文兵衛の名が見え,嘉永元年には肝煎乾覚郎・乾一八などの名がある(麻植郡誌)。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。明治10年頃,敷地小学校が敷地村に開校し,当村唐人【からうと】に民家を借りて分教場を設置した。同22年西尾村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7427079
最終更新日:2009-03-01




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