ケータイ辞書JLogosロゴ 岩脇(近代)


徳島県>羽ノ浦町

 明治22年〜現在の大字名。はじめ羽ノ浦村,大正7年からは羽ノ浦町の大字。明治24年の戸数288・人口1,605(男815・女790),厩76,寺1,学校1,船50(徴発物件一覧表)。当時は那賀川河口の中島浦に次いで船の保有数が多く,河川漁業も盛んであった。明治期〜大正期頃には古庄とともに那賀川上流の木材・炭・薪・茶などを主とする物資の集散地で,筏流しの休憩店もあった。明治34年岩脇郵便局が町筋に開局,同42年県道古毛越線の開通などにより,水陸交通や通信の便に恵まれ商工業が発達。その後大正5年阿南鉄道により古庄〜中田間に鉄道(現国鉄牟岐線)が開通。同年古庄新渡しの渡船が岡田式渡船となり,昭和3年那賀川橋が開通して洪水時にも那賀川両岸の交通が確保され,商工業の中心地は那賀川橋北岸の古庄大道付近に移った。この間大正13年から同14年にかけて小作争議が起こった。当時の岩脇では全耕地の約7割が小作地で,小作料は米の反当収穫量約2石4斗に対し平均1石2斗5升,麦の反当収穫量1石2斗に対し平均6斗で,岩脇の小作農民は,古毛・明見・古庄・高田・中塚・那東などの小作農民を合わせて日本農民組合羽ノ浦支部を結成し,年貢の減免を地主に要求。これに対して地主側も組合を結成し小作地の返還を求めた。岩脇の農民は年貢米相当の米1,000余石を岩脇東在所の田圃の中に積み上げ,蓑笠姿でデモ行進や街頭演説会などを行い,受刑者を出したが,結果として米年貢は約2割引き,麦年貢は約6割引となった。その後も昭和11年に小作米のロール摺による量込損失および産米検査による奨励米の交付を地主らに要求する運動を行った。昭和20年の農地改革で自作農創設が推進された。現在では稲作を中心にしながらも,キュウリなどの促成栽培や園芸作物・果樹の栽培を行い,農業用機械の普及による省力化などのため,農業以外の職業に従事する兼農業家が増加。農業以外に,隣接する古庄とともに明治期以降製材工業・木工業が発達し,近代的工場に発展したのは,大正から昭和初期のことである。明治以来の岩城製材所は大正7年近代的設備をもつ工場を建設,大正2年に住友製材所創設,那賀奥の豊富な木材や林産資源を背景として,那賀川河口の中島付近とともに,県下有数の木工業集団地域として発展する基礎が形成された。那賀川流域は古来,洪水による被害が著しい地域であったが,昭和17年に那賀川北岸水利組合連合会結成,その後農林省直轄事業として,同22年那賀川北岸用水・護岸工事着工,同30年完成。大井手・下広瀬・広瀬上の堰などを1か所に統合し,那賀川北岸平野に豊かな水を供給する用水路ができ,長安口ダム・川口ダムの放水量の調節などと相まって洪水時の堤防決壊や浸水が防げるようになった。学校は,明治23年中庄尋常小学校岩脇分校が置かれ,同25年岩脇尋常小学校として独立,大正11年高等科を併置し岩脇尋常高等小学校となり,昭和16年岩脇国民学校,同22年岩脇小学校と改称。また地内の有志により昭和12年創設された松林幼稚園は,同23年那賀川保育園と改称。同51年字姥ケ原にすみれ保育園完成。世帯数・人口は,昭和45年364・1,536,同50年361・1,493,同55年373・1,480。昭和48年に羽ノ浦町が農林省の農村総合整備モデル事業の指定を受けたことにより,地内の農道・集落道路・農業用水路・排水路・圃場などの整備が進められた。ほかに上岩脇農村公園・学校給食センター・岩脇福祉会館・青雲城なども建設・整備された。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7427118
最終更新日:2009-03-01




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