ケータイ辞書JLogosロゴ 大俣村(近世)


徳島県>市場町

 江戸期〜明治22年の村名。阿波郡のうち。徳島藩領。村高は,寛文4年の高辻帳,享保元年の高辻帳,天明7年の高辻帳ともに272石余,「天保郷帳」520石余,「旧高旧領」519石余うち蔵入地61石余でほかは藩士15名の知行地。「阿波志」によれば「大又」と書かれ,「旧属朽田荘」と見え,土田は下,陸田100分の45,水田100分の55,反別115町9反余,村高515石で5分の4は采地,戸数251,寺院は廃寺の法満寺があり,小庵に律僧が住している。寛保神社帳(続徴古雑抄1)によると当村の神社は八幡宮,神主は当村の京野和泉とある。農作物は米・麦を中心に甘藷・藍・サトウキビが栽培されていた(大俣村史)。天保の飢饉のおりの上郡一揆に際して,天保13年正月当村の坂東町次郎は地内南大俣の地や西野川村などの農民を糾合し,総勢300人で組頭庄屋川人藤三郎の屋敷を襲った。藤三郎は南庭の堀を利用して姿をくらまして難を免れた。当村庄屋井内門十郎が徳島の郡奉行所へ急報したため,この騒ぎの翌朝には藩によって町次郎は捕えられ,百姓政太とともに同年11月名東【みようどう】郡鮎喰磧で断罪に処され,伊沢村でさらし首となった。他の主要な参加者は追放となり,藤三郎は改易された(同前)。明治4年徳島県,同年名東県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。明治8年の戸数319・人口1,511。同年現在の大俣小学校の前身である協力校が新築開校し,大俣全村を通学区として児童数は50〜60名であった。当時は農業が主で米・麦・芋・稗を作り,麦・芋・稗が主食であった。交通路には南から当村を縦断して北上し,遠光の地を経て,上喜来村に入り,讃岐街道に出る道がある(同前)。明治22年大俣村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7427268
最終更新日:2009-03-01




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