ケータイ辞書JLogosロゴ 柿原荘(中世)


徳島県>吉野町

 鎌倉期に見える荘園名。阿波郡・板西郡のうち。鎌倉末期の訴訟関係文書断簡(原田家文書)に「□波国柿原庄内宮河内郷地頭柿原太郎⊏」と見え,判決部分を欠くが,当荘内宮河内郷地頭柿原太郎義氏と松島西条荘地頭佐々木四郎氏綱との間で宮川内谷川の水利権をめぐって相論があったことが知られる(原田家文書)。この相論は義氏の祖父柿原四郎義継(法名入意)のときに佐々木氏綱の亡父道西が濫妨したことが発端で,弘安元年6月には,義継に一円管領すべき旨の下知状が下されており,その16年後の正応6年道西は再び新しく井堰を構え,相論が再発したという。荘域は現在の吉野町柿原から土成町吉田・宮川内にかけての地域に比定される。なお当荘を本貫とし,鎌倉期〜戦国期にかけて活躍する柿原氏は,「平家物語」に「阿波国の在庁」と記される後白河院の近臣藤原師光(法名西光)の子孫と伝える(古典大系)。師光は「阿波志」に「源(ママ)師光庁 在柿原広永里,其地今存」とあるように(現在字ヒロナカに広長城跡が残る),当荘を本拠として隣接する国衙領郡原(「阿波志」によれば阿波郡家所在地と伝える)の経営に当たっていたと推定されている(吉野町史)。治承元年の鹿ケ谷の変当時には,師光の四男広永も阿波国の在庁官人であったが,平氏の命をうけた名西【みようざい】郡桜間城主田口(紀)成良に攻められ,当荘内の宮川内で自殺したという(阿波志)。元徳元年11月2日の六波羅御教書に「阿波国柿原四郎入道笑三師房并国衙雑掌以下輩」とあるところから,在庁官人であったことが裏付けられる(離宮八幡宮文書/島本町史史料編)。南北朝期になると「太平記」に細川頼之の部下として「柿原孫四郎」の名が(古典大系),また明徳3年8月28日の相国寺供養の際,管領細川頼元に従った郎等23騎の中に「柿原下野三郎兼信」の名が見える(相国寺供養記/群書24)。この当時柿原氏は細川氏の被官となっているが,これは当荘が細川氏の守護所秋月に近接していたためと考えられる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7427355
最終更新日:2009-03-01




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