ケータイ辞書JLogosロゴ 柿原(中世)


徳島県>吉野町

 室町期〜戦国期に見える地名。麻殖【おえ】郡麻殖荘のうち。文安5年12月22日の別当覚葉旦那職売券に「売放申麻殖庄柿原別当旦那職事」とあり,柿原別当覚葉が麻植荘内の檀那職(8軒)を直銭1貫500文で麻殖十川先達方(現鴨島町仙光寺)に売却している(良蔵院文書/徴古雑抄2)。また永正11年12月18日の別当玄覚旦那職売券でも同様に,柿原別当玄覚は麻殖荘内の残りの「河南一円」の檀那職(10軒)を売銭1貫文で同じく十川先達に売却している(同前)。この「柿原別当」とは,当地にあった十二社神社の別当寺南明院(現薬師寺)住職のことで(吉野町史),天文21年11月7日の念行者修験道定文に署名した19名の念行者の筆頭に「会定柿原別当坊」とあり(良蔵院文書/徴古雑抄2),天正3年の勝瑞宗論の際,真言宗寺院として動員された山伏の主な者の中に「柿ノ原別当坊」の名が見え(願勝寺歴代系譜),柿原別当は熊野信仰の盛んな阿波で大きな役割を果たしていたと考えられる。なお戦国期には,柿原城主で50貫を領した柿原源吾と,その一族の藤吾・新吾・三吾は(古城諸将記/徴古雑抄7),郡城に拠った柿原某(阿波志)とともに,元亀3年の上桜合戦で篠原長房に殉じたという(吉野町史)。また原田城に拠った柿原氏は原田氏とも称し,「古城諸将記」には40貫(50貫ともいう)を領した原田久左衛門の名が見える(徴古雑抄7)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7427356
最終更新日:2009-03-01




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