ケータイ辞書JLogosロゴ 柿原(近代)


徳島県>吉野町

 明治22年〜現在の大字名。はじめ柿島村,昭和32年からは吉野町の大字。明治24年の戸数763・人口3,917(男1,959・女1,958),寺3,学校2,船51(徴発物件一覧表)。水害の常襲地帯であったため,明治20年の吉野川改修10年計画で河川改修工事は本格的になり,昭和33年字二条から字小島までの無堤防地帯に築堤して洪水の被害がなくなった。産業の中心は農業で,宮川内谷川・九頭宇谷川の扇状地を中心に畑作が主として行われ,明治42年頃には91%が畑作となった。作物は明治初年からはサトウキビ・甘藷で,明治末期から大正期にかけてサトウキビの耕作反別は約20町であった。製糖業を営む家はほぼ10軒ぐらいで,主に徳島方面に出荷した。製造時期は旧暦の11月初旬から正月までであった。サトウキビの生産高は反当たり1,000貫位で,安い時は反当たり約12円しかなかった。明治34年砂糖消費税法が施行されて外国砂糖の輸入が増加するにつれ,サトウキビの作付面積および砂糖製造も減少した。また藍は明治30年代までが全盛でほとんど地内全域にわたって栽培されていた。やがて外国染料の輸入に伴い,同35年頃衰退した。日露戦争後藍作に代わって,埼玉県から桑苗を共同購入し移植して当地の桑栽培がはじまった。その後の増殖で県下有数の養蚕村となった。「県蚕糸統計」によると,昭和3年西方の大関,同12年西方の横綱とトップクラスに位置づけられていた。この状態は第2次大戦がはじまり食糧増産が叫ばれるまで続いた。豊富な吉野川の水を利用して水田を開くことが,住民の願望であったが,大正3年に紀念大正耕地整理組合が発足し,字谷・植松・小島・ハトノ原・ノタ原で約20町の畑が水田に開発された。昭和18年には二条地区を対象に原耕地整理組合が設立された。当地の自作・小作の関係をみると,田の44.4%,畑の37%が小作であった。大正12年手束氏の土地,現金などの寄付が原動力となって県立阿波中学校(現県立阿波高校)が設立された。大正14年松村自動車会社が設立され,本店を追分におき徳島〜追分間にバスを運行した。昭和3年知恵島と当地を結ぶ中央橋の潜水橋が完成し,鴨島方面に路線がのびた。同28年に中央橋が鉄橋となった。同47年にはレタスの産地指定を受け県内生産高の約7割を産出している。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7427358
最終更新日:2009-03-01




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