ケータイ辞書JLogosロゴ 金磯新田村(近世)


徳島県>小松島市

 江戸期〜明治22年の村名。勝浦郡のうち。江戸期は単に金磯新田と称した。当地はもと小松島浦・田野村・芝生【しぼう】村・日開野村の田地囲堤外の州先(潮干潟)で,元禄年間以後の新田開発により成立。徳島藩領。村高は,「天保郷帳」18石余,「旧高旧領」237石余ですべて蔵入地。なお当村は享保元年の高辻帳,天明7年の高辻帳には見えない。かつて当地域は,暴風雨で勝浦川が氾濫すると,その分流である芝生川の洪水によって水底に没した。元禄2年8月には勝浦川の堤が大破し,村々に洪水が押し寄せ,満潮と重なって水田は潮入となり,稲は潮枯れとなって,収穫皆無の状態となった。農業と物資貿易を営む多田助右衛門家3代目は,この潮干潟の開発を企図し,元禄3〜4年の2年間に100間の大手囲堤と樋門を自力で築立てて新田を完成した(小松島市史)。享保10年には田畑35町余に対して年貢が賦課され,当地を金磯新田と称することとなった(同前)。元文3年6月の出水によって,勝浦川の堤が田浦村の井口で大破し,その洪水が当地に流れ込み,樋門を大破して,作付の稲はすべて潮枯れとなった。翌年もまた同様の被害をうけ,2年連続の災害によって,多田家の生活は困窮したが,災害復旧のため所有していた居屋敷・古田などを売り払って復旧に努力した。その結果,宝暦12年独立した新田村となり,多田助右衛門は当村名主として認められた。明和3年の検地では,反別35町余,高206石余,明和8年の棟附帳によると,家数12,男の人数34,新田に居住した人々は仕付人と呼ばれ,見懸銀を支払う見懸人として帳付けされ,高206石は名主助右衛門に高付けされている(同前)。「阿波志」には「金磯」と見え,「元禄二年八月勝浦河大溢芝生川決,多田某請為墾田七十余町」とあり,土田は中・下がまじり,反別は水田34町・陸田2町1反。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。明治9年調の戸数21・人数131(男70・女61),牛4・馬13,明治初期の税地は田42町9反余・畑2町2反余,地内の社堂は地神社・弁才天祠・弁才天堂,職業別戸数は農業18・工業1・商業1(勝浦郡村誌)。明治22年小松島村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7427395
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ