ケータイ辞書JLogosロゴ 鴨島町(近代)


徳島県>鴨島町

 明治41年〜現在の麻植郡の自治体名。村制時の3大字を継承。養蚕熱の高まりとともに製糸工場が次々と創業し,明治43年には大手の筒井製糸が進出,生産は大幅に飛躍した。大正初期にはすでに20余の大小工場があった。同11年に大手の片倉製糸工場も操業を始め,筒井・片倉の2大工場には町内はもとより近隣の農村から大勢の女子工員が集まり,町は活気にあふれた。大正末期から昭和初年にかけての最盛期には,女子従業員700人,生産生糸は年産65tに達し,蚕種製造業者も町内だけで50業者を超えた。また商業も発達し,吉野川中流域の商都としてにぎわいをみせた。しかし昭和10年頃から製糸業界は人絹の影響を受けて不振となり,第2次大戦直前には筒井・片倉の2工場と数社の小工場だけとなった。大手の2社は戦中から戦後を通じて操業を続けたが,創業以来40年間,糸の町鴨島の2大工場の1つとして,県内製糸産業界の主座を占めてきた片倉工場が,昭和37年に閉鎖。鴨島菊人形は,大正12年に筒井製糸社長筒井直太郎と菊の愛好家数人が30鉢を栽培し,同製糸工場前に飾って品評会を開き,一般公開したことに始まる。翌13年には大輪と懸がい100鉢が飾られた。その後,年々出品数も増加し,遠方の村からも見物人が来るにぎわいぶりであった。昭和3年天皇御大典を記念して,本郷の菊友座で菊人形展を開催し,一躍県下に名が知れわたった。昭和17年から戦争のため中止となる。昭和24年に字喜来の岡本勝次郎が発起人となり,喜来地区に1,500m[sup]2[/sup]の用地を買収し,劇場有楽座を設置して,10月20日〜11月10日の間菊人形展を開いた。菊花1万鉢,見流し菊人形20場面,12段返しなどのほかに映画・演劇などの趣向をこらし盛大に行われた。その後催し物も年々立派になり,観客も30万人を超えるほどになった。昭和32年に有楽座が全焼し,菊人形の復興が危ぶまれたが,岡本勝次郎が独力で再建した。その後昭和40年頃菊人形展は中止となったが,鴨島には菊友会があり観賞菊作りが盛んで町の行事の際や観光用に,見事な菊が出品されている。昭和22年銀座通りの旅館付近から出火した火事により145戸を全焼。昭和28年に吉野川に阿波中央橋が開通したことにより,北岸の板野・阿波両郡との交通難が解消し,同38年には国道192号も開通して交通の渋滞が緩和された。同29年牛島・森山・西尾の3か村を合併,合併各村の旧大字を継承した11大字を加え14大字となる。同30年東山村の字樋山地地区を,同32年柿島村知恵島を編入,16大字となる。新鴨島町発足後は,県西の商工業およびレジャーの中心地として都市化し,独自の文化圏を保持して,徳島市の衛星都市的様相を呈している。世帯数・人口は,昭和25年1,526・7,509(男3,403・女4,106),同29年4,603・2万4,353,同40年5,437・2万3,138,同55年7,593・2万6,011。昭和30年には,水稲作付面積710町・生産1万8,969石,裸麦作付670町・1万4,433石。昭和40年稲作857町・2,690t。同50年稲作654町・2,750t。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7427450
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ