ケータイ辞書JLogosロゴ 加茂之宮村(近世)


徳島県>三野町

 江戸期〜明治22年の村名。三好郡のうち。徳島藩領。村高は,寛文4年の高辻帳,享保元年の高辻帳,天明7年の高辻帳および「天保郷帳」ともに592石余,文化10年の阿波国村々御高都帳では725石余(民政資料),「旧高旧領」では「加茂野宮村」と見え835石余,うち蔵入地650石余と平瀬半十郎15石余・速水親太郎2石余・山崎九郎太郎27石余・井村武之丞25石・奥津勇吉30石などの相給地。明和元年の家数159,人数710,寛政10年の家数155(三野町誌)。「阿波志」によれば戸数155,土田の項には「陸田十分之七,水田十分之三,七十九町七段一畝」と見える。村内では三野6か村で一番生産高が高く村としては米と藍作が主作物であった。庄屋は初期の田村氏失政後,清水村や勢力村の庄屋が兼帯したが,のち田村氏が復活,組頭庄屋助役を兼ねた。滝寺のふもとには鴨宮御番所があり,三好郡の佐野口・白地渡しの2か所とともに,讃岐との交通の取締りにあたっていた。下加茂神社は京都下鴨神社の分霊を奉遷したもので,式内社に比定されてはいないが,同時代の由緒をもつものと思われる。また東王地の熊野十二柱神社は,養老年間高安親王が按察使として阿波国へ下向した際に,勢力村館山に行宮を営んで,この社を深く尊崇したという伝承を有する。また真言宗滝寺は天長年間僧空海が開き,西方浄土観音の聖命により白山大権現を勧請し,小笠原次郎義秋が荘園を寄進したという。小笠原氏が三好氏と改姓してからは三好氏の香華院となり,一時期は日蓮宗寺院にもなったことがあり,戦国期に栄えた。竜頭・金剛の2滝が滝寺奥にある。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。「三好郡村誌」によれば,税地は田25町9反余・畑59町8反余・宅地7町2反余,明治9年調の戸数152,人数990,牛70・馬52,荷舟1・漁舟5。明治年間も当初は米作と藍作が中心であったが,藍作は次第に衰退し,その衰退とともに養蚕に転換していった。また中国地方への出稼ぎである金物行商も農業の補完として一部ではじめられた。同22年三野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7427455
最終更新日:2009-03-01




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