ケータイ辞書JLogosロゴ 河輪田荘(中世)


徳島県>山川町

 平安末期〜室町期に見える荘園名。麻殖【おえ】郡のうち。永久5年10月13日の藤原宗通家政所下文に「民部卿家政所下 阿輪田庄 可早任庁宣打定四至牓示庄領事」とあるが,「阿」は「河」の誤記と考えられる(朝野群載)。この史料によれば,当時荘域を拡大しようとする当荘と国衙の間で相論が起きており,荘園の四至を確定するため,太政官史生紀為忠が派遣され,国司庁宣に従って四至牓示が打定められることになった。宗通は当荘の領家であったと思われるが,当荘は宗通の女子で藤原忠通の妻となった宗子を通じて,忠通と宗子の子である聖子(皇嘉門院)へ伝領されたと考えられる。治承4年5月11日の皇嘉門院惣処分状には「あは かわゝた」とあり(九条家文書/平遺3913),河輪田荘は皇嘉門院から九条兼実の子である良通に譲られて九条家領となった。元久元年4月23日と同年8月23日の九条兼実惣処分状によれば,良通が早逝したため,「阿波国河輪田庄」を含む荘園と,九条家領の堂舎を良通の妻御堂御前に処分されている(九条家文書/図書寮叢刊1)。下って,元弘3年12月の阿波国河輪田本庄年貢未進犯用分注文案(醍醐寺文書/醍醐寺文化財研究所研究紀要3)は,当荘の公文代蓮教が元弘2,3年の年貢未進分の犯用と殺害事件とについて領主に注進したもので,未進年貢額が人別に集計され,悪党人として成国・幸一・道教・行貞・真永・守国・重秀・友光・末守入道・正行・安正・行安・袈裟大夫・宗国・宗真・教法と家人の計17名が記され,名【みよう】として久末・久次・光末・友松・末吉・行助・行貞・貞恒・重弘・美作の各名が見える。その後,応永19年8月4日の足利義持御判御教書案(東寺百合文書/大日料7-15)には「光明照院領……阿波国河輪田荘教令院田畠等事」と見え,丹波国河北保などとともに荘内の田畠が九条家の菩提寺である光明照院の所領とされており,同年9月6日の管領細川満元施行状案によって安堵されていることがわかる(同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7427475
最終更新日:2009-03-01




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