ケータイ辞書JLogosロゴ 瀬詰村(近世)


徳島県>山川町

 江戸期〜明治22年の村名。麻植【おえ】郡のうち。徳島藩領。慶長9年検地帳写に「東に喜来村,阿波御国麻植郡瀬詰庄湯立村」と見え,明暦年間直前に喜来村・湯立村は瀬詰村に含まれたという(山川町史)。慶長14年麻植郡棟附帳(山川町教育委員会蔵文書)では村高994石,家数45,本百姓は13人。寛文4年の高辻帳,享保元年の高辻帳,天明7年の高辻帳,「天保郷帳」ではともに1,258石余。「旧高旧領」では949石余うち289石余が蔵入地,残余は稲田九郎兵衛・稲田勘解由など18人の知行地となっている。文化4年の棟附帳では家数57・人数157,ほかに棟附改支配外帳に記される藩士の譜代家来25戸もあった(同前)。北の吉野川をはじめ三方が河川に臨む当村は,水害を受け易い立地のため,たびたび大被害を出したが,文化元年に西崎堤防築造をめぐって瀬詰本村と湯立村が騒動を起こすなど,水との戦いが重要だった。なお天保年間に比べ幕末の村高が約300石減少しているのは,水害による川成地が増加したものと考えられる。天保年間以降の寺子屋には市兵衛・富本謙徳・寺内克五郎・石川久平などを師匠とするものがあった。徳島藩には藩金調達に応じる御銀主が制度化されていたが,当村の佐藤亀蔵は安政6年に120両,慶応4年にも120両を醵出し,支配外無役人の特権を得ている。また慶応4年には夫役御免人平野清吉も80両を納めている(山川町史)。明治3年に徳島藩庁牧民課は川島に西出張所を設けて阿波・麻植・美馬・三好の4郡を管轄したが,村方では在来の組頭庄屋の上に大庄屋肝煎を置くことになり,当村の阿部豊三郎が就任した。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。河川交通の要地として瀬詰浜は重要な機能を果たし,吉野川を上下する船や筏が発着した。明治9年には瀬詰村に50石未満日本型の渡船2艘と荷船12艘が就航していた。渡船は有料で銭納であったが,毎日利用する場合は,正月と盆に米麦または金幣で船頭に謝礼を渡す施米制度もあった。同9年秉彙小学校が開校し,同19年公立瀬詰小学校と改称した。同22年山瀬村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7427930
最終更新日:2009-03-01




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