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- 富吉荘(中世)とは
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富吉荘(中世) 鎌倉期~室町期に見える荘園名尾張国海東郡のうち文保2年10月日富吉荘雑掌申状案によれば,当荘は高倉上皇没後高倉院法華堂領として建久8年に立券荘号された(壬生家文書2)延慶4年5月1日の関東下知状案によれば,貞応元年以来正安元年に至るまで,高倉法華堂は地頭方との相論に際して幕府からたびたび所領を保障する文書を得てきたが,永仁6年に当荘預所の私宅が強盗によって放火され荘の公験も焼失したため,雑掌の申請に従いこの日幕府は発給文書を書写して雑掌に与えることを決めている(同前)また,前述文保2年の雑掌申状案,同3年3月25日後宇多上皇院宣などによれば,高倉院法華堂は,これとは別に後宇多上皇から官務家に仰せて建久8年の立券状などを書写させ法華堂に賜るよう申請し,上皇はこれに応じている一方,この過程で,当荘地頭代と隣荘日置荘雑掌との間に,生出島・六丈島と称する成洲をめぐって堺相論を生じ,地頭代が建久8年の立券状などの案文を提出,幕府は官庫にあるとされる同文書の正文との照合をするため,文保2年12月23日の関東御教書で,六波羅探題に対し正文の書写を注進するよう命じている(同前)ところで,以上に先立ち,年月日未詳荘々散状注文(兼仲卿記建治元年10月巻裏文書/鎌遺12091),年未詳2月5日西市正資高書状(同前建治元年11月巻裏文書/同前12140)に「御仏事用途」を負担すべき荘園の1つとして,国名を記さず「富吉庄」があげられているこれは安嘉門院五七日曼荼羅供沙汰注文(同前弘安6年10月9日条/同前14973)に「今林准后知行 富吉庄」とあるのと同地かと思われる今林准后が知行する富吉荘は,嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書/同前22661)に見え,同荘はもと藤原隆房の所領であり,孫女貞子(今林准后,西園寺実氏室,大宮女院母)に伝えられ,安楽光院(持明院)領として持明院家出自の室町女院遺領のうちに含まれたのちに,大宮女院を母とする亀山上皇の知行となっている室町期になると,万徳寺釈論奥書に,宝徳2年3月7日「尾州海東郡富吉庄大野談義所」にて書写とあり(尾張志),戦国期には文明8年3月28日の宝生院所蔵観普賢経奥書に「尾州海東郡富吉庄大野西方覚真房釈迦寺」とある(佐織町史資料編2)さらに,明応9年6月18日の年紀を有する竜照院鰐口銘(尾張の遺跡と遺物)に,「尾州海東郡富吉庄蟹江常楽寺」とある当荘は近世の大野新田村を中心とし,西は日置荘に接し,東は富吉加納・富田荘に接する現在の蟹江町の一部を含む地域に比定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」