ケータイ辞書JLogosロゴ 鞆浦(近世)


徳島県>海部町

 江戸期〜明治22年の村名。海部郡のうち。徳島藩領。村高は,寛文4年の高辻帳で27石余,享保元年の高辻帳と天明7年の高辻帳も同高,「天保郷帳」で34石余,「旧高旧領」では120石余,すべて蔵入地となっている。「阿波志」では戸数291・人数1,099。海部氏が拠った海部城(鞆城)があり,同城は天正3年に落城したが,同13年蜂須賀家政は入国に伴い修築し,阿波九城の1つとして益田宮内を配して城番とし300の守兵を駐屯させた。元和元年幕府の一国一城令により,同城は廃城となったが,海部郡代役所(陣屋)が置かれ,また寛永17年には阿波・土佐国境の押えとして判形人43人を置いて警備させた。文化4年に郡代役所は日和佐浦に移ったが,当浦は戦国期から江戸期にかけて,海部郡の軍事・行政および文化の中心地として重要な位置を占めた。現在は海南町の大里松原にある延喜式内社和奈意富曽神社は,もと鞆浦大宮山にあり,慶長9年に移転した。字高倉には多善寺がある。浄土宗京都知恩院末寺で,本尊は阿弥陀如来立像,元禄元年に僧貞誉開基。南町には万照寺がある。真言宗金剛峰寺末で,境内が広く,方丈・庫裏・山門・鎮守堂が三面を囲む。本尊は薬師如来座像。東町には日蓮宗法華寺がある。本堂は祖師堂と称して4間四方・2間四方の奥殿とともに壮麗な楼閣造,精巧な彫刻を施した総欅造の寺である。本尊は日蓮の木像。立岩には善称寺がある。真宗京都本願寺末で,本堂・庫裡・山門があり,本尊は阿弥陀如来像。また北町の路傍には大岩があり,それに慶長地震・宝永地震の災害の様子が記されている。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。「海部郡村誌」によれば,税地は田1町9反余・畑1町1反余・宅地2町5反余・山林(旧反別)6町4反余・藪8反余,明治9年調の戸数329,人数1,234ほかに他出寄留1,200石以上500石未満日本型船1・50石以上200石未満日本型船18・50石未満荷船10・川船25・漁船57,牛2,漁獲物は鰹・鰯・鰤・小鯛・鰺・鯖・細魚・鰘・飛魚,また製造物は鰹節・干細魚・酒盗などとある。明治6年致道校設立,のち鞆小学校と改称。同9年の生徒数63(海部郡村誌)。同22年鞆奥村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7428172
最終更新日:2009-03-01




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