ケータイ辞書JLogosロゴ 川津村(近代)


香川県>坂出市

 明治23年〜昭和29年の自治体名。はじめ鵜足郡,明治32年からは綾歌郡に所属。大字は編成せず。明治24年の戸数785・人口3,712(男1,897・女1,815),幅員東西1里・南北1里,寺2,学校2(徴発物件一覧)。世帯数・人口は,大正9年830・4,008,昭和10年810・4,058,同25年993・5,374(男2,623・女2,751)。同年の面積は9.05km[sup]2[/sup],うち田2,840反・畑819反・宅地10万4,460反・池沼23反・山林2,931反(県統計年鑑)。昭和45年の農家の世帯数は731,うち専業471・第1種兼業165・第2種兼業95(県農業協同組合史)で,本来純農村地帯である。明治30年頃から殖産が盛んとなり,米作を中心とした農業から変容を遂げる。明治24年飯野山を開墾し,桃の栽培が始まりこれに続いて同35年長十郎梨,大正7年リンゴ・ブドウ,そして昭和初期には柿が栽培されはじめ,作付反別も60町を超え,果樹栽培が盛んとなる。養蚕は大正5年蚕業改良組合が設立され,昭和3年頃にはその戸数100戸余・作付反別180町とピークを迎える。煙草も昭和15年47戸・10町の生産がみられる。大正期〜昭和期にかけて農家の副業として目ざましく発達したのは麦稈真田・叺の藁工品である。麦稈真田は明治28年頃,備中頼島から講師を招き伝習したことに始まり,大正7年の産額2万6,000円を数え全盛となる。叺は大正に入り,隣町坂出の製塩の発展とともに盛んとなり,昭和15年頃全盛期で年額3万円を計上した。このような農業生産の発展のため大正3年川津農業補習学校が設立された。また昭和17年には川津村農会主催で,女子に対し牛耕練習会が実施された。一方,小作争議をはじめとした農民運動も大きな高まりをみせ,昭和2年全日本農民組合県連創立大会が川津村公民館で開催された。教育では,明治20年城山・飯麓小学校を統合し,本校・分校とし,さらに同25年分校を廃止して川津尋常小学校とした。同39年には高等科が置かれ,川津尋常高等小学校と改称。児童数515(男277・女238)。この小学校内に大正4年村立川津図書館が設置された。青年のための教育機関として,明治38年川津村青年会が夜学をはじめ,これが昭和10年川津青年学校へと発展する。昭和12年になり川津幼稚園が設置された。昭和22年川津中学校が小学校の校舎の一部を借りて開校した。交通では,大正7年自転車が90台登録されている(村勢要覧)が,交通機関の発達はこれ以降である。同10年に定期バス路線が坂出貞光線に開通し,さらに昭和5年には金毘羅参詣の発達とともに坂出〜琴平間に当時としては最新鋭のオールスチールカー6両,所要時間30分の琴平急行電鉄が敷設され,村内に川津駅が置かれた。しかし同線は,昭和19年戦局の悪化とともに徴発され,廃止された。道路は坂出貞光線が幹線で明治34年開通し,のち逐次拡張されていった。もと郡道であった中原丸亀線は大正5年拡張された。農村のため,農間期の祭礼はにぎやかで「嫁にゆくなら川津へお出で,川津祭は二度ござる」と,明治期うたわれていた。これが大宮八幡宮・春日大明神の秋の祭礼である。このうち大宮八幡は瑜伽市・牛市などで近郷近在の信仰をうけた。また念仏踊りも明治頃まで行われていたようで,大正元年川津村議会で念仏踊り再興の件が審議されたが否決されている。昭和30年1月1日坂出市川津町となり,同時に一部を飯野村に編入。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7429386
最終更新日:2009-03-01




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