ケータイ辞書JLogosロゴ 櫛無保(中世)


香川県>琴平町

 鎌倉期〜南北朝期に見える保名。那珂郡のうち。法勝寺領。成立の事情は不明だが,承暦元年,白河天皇が御願寺として法勝寺を建立した際寄せられた封戸の便補保となったものかと思われる。貞応3年9月4日,承久の乱の功によって,藤原(島津)忠時を「讃岐国櫛無保地頭職」に補任した関東下知状(島津家文書1/大日古)が史料上の初見。忠時の孫の島津忠宗の文保2年3月15日の譲状(同前)では,櫛無保上村・下村が薩摩国守護職などとともに嫡子貞久に譲られ,櫛無保のうち公文名・田所名が大むすめ御前に譲られている。この女子分の所領は,彼女に子息がなければ一期の後惣領貞久が知行すべしと定められており,延文元年8月6日に足利義詮が貞久に与えた安堵下文(同前)には,貞久所領として櫛無保下村・上村に公文名・光成名が加わっている。次いで貞久が貞治2年4月10日に子息師久に譲った所領のうちにも,同保上村・下村,公文名・田所名・光成名が記されている(同前)。櫛無保地頭職は以上のように薩摩守護島津氏に伝領されており,その所領内容は下村・上村であって,これに公文名・田所名などが付け加わっている。上村・下村は現在の琴平町上櫛梨・下櫛梨(一部善通寺市櫛梨町)にあたるかと思われる。公文名は隣接する満濃町に公文の地名が残っている。島津氏は,櫛無保に一族あるいは家臣を代官として派遣して支配したのであろうが,地頭職のほかに公文職,田所職も兼ねたとみられ,その在地支配は強力であったと思われる。「経俊卿記」正嘉元年4月19日の条に,「法勝寺条々」として,櫛無保の年貢を地頭が抑留した記事がある。荘園領主の権限を犯して領主制を進めていった状況が推察される。しかし南北朝期になると,動乱のうちに島津氏の領主支配も動揺してきた。文和4年,貞久は,櫛無保地頭職が鎮西において軍忠に励んでいる間に違乱をうけたと幕府に訴えており,将軍義詮は,細川頼之に違乱を止めるよう書状を発し(島津家文書1/大日古),翌延文元年には前記のように所領安堵の下文を貞久に与えているが,康安2年には,中国大将細川頼之による押領を訴える貞久の申状が出され,翌貞治元年10月17日に,「櫛無保事,急速可仰付讃岐国守護也」との義詮の御判御教書が与えられている(同前)。貞治6年3月5日の島津師久の所領処分目録(同前)のうちには,嫡子師久分として讃岐国櫛無保が記されているが,室町期の島津氏の史料の中には櫛無保は消え,結局,島津氏領櫛無保地頭職は,南北朝動乱の結果,讃岐の在地武士の支配に入っていったものと思われる。荘園領主法勝寺については,「愚管記」の永和元年4月11日の条に,法勝寺領讃岐国櫛無保をめぐって法華堂公文定祐と禅衆との相論があったことが記されており,その支配が南北朝末期まで続いていることが知られる。また,善通寺誕生院宥範の観応3年6月25日の譲状(善通寺文書/新編香川叢書)に,建武3年2月15日に,「櫛無社地頭職」が将軍尊氏の下知によって宥範に成し下され,誕生院の供僧ならびに修理などの支配としたとあり,応永21年4月21日の権律師宥快譲状(同前)にも,「一所 院領櫛無地頭職事」と見えるが,その実態あるいは島津氏領櫛無保地頭職との関係は明らかになし得ない。下って,天文14年7月日の堺伊勢屋四郎衛門宛て前野麻屋孫三郎長儀神宮御師道者職売券に「くしなし里」が見え(来田文書),天正19年7月25日の長谷川武左衛門宛て生駒近規知行宛行状写に「中郡櫛無」250石が見える(長谷川文書/新編香川叢書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7429470
最終更新日:2009-03-01




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