ケータイ辞書JLogosロゴ 熊岡(中世)


香川県>高瀬町

 南北朝期から見える地名。三野郡豊福荘のうち。嘉慶元年11月26日子息松法師(頼長)にあてた細川頼有譲状(永青文庫所蔵細川家文書)に,所領の1つとして「とよふくのしやうの内,くまをかのやすとみかあと」があげられ,応永7年8月24日の室町幕府御教書(同前)にも,子息頼長の所領として「熊岡安富名」が安堵されている。戦国期に入って,永禄元年11月15日,秋山兵庫助に宛てた香川之景感状(秋山家文書)に,同年10月三好実休との合戦における軍忠を褒し,三野郡の「熊岡・上高野,御料所分内卅石」を新恩として給与する旨の文言が見え,さらに同8年6月28日子息秋山藤五郎に宛てた香川之景知行宛行状(同前)にも,同所の知行安堵が行われている。以上,「熊岡」が豊福荘に所属する所領であったこと,また細川頼有譲状の「あと」との文言,香川之景発給文書の「御料所」との表現より判断して,この所領が南北朝期に闕所地となり,のち守護料所となって戦国期に至ったものと考えられる。なお,さきの香川之景知行宛行状には,「熊岡・上高野之内御料所分事,但景盛名除之……此内家弘名分,塩飽平兵衛尉雖先給人之儀候」とあり,景盛名・家弘名の名があげられているが,これが熊岡に属するものか,上高野に属するものか,定かではない。また,この間,応永9年3月14日付の徳島県三好郡川崎町三所神社大般若経奥書(三好郡志)に,「讃州三野郡熊岡庄八幡宮持宝院同宿ニ良恵」とあり,同27年の東福寺僧岐陽方秀撰「岐陽自賛」(続群9下)に,自らの出生を記して,「余本貫南海讃岐州,俗姓佐伯氏,母源氏……遂以康安辛丑(ノ)十二月二十五日寅刻,誕于熊岡荘,時属国騒乱」としている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7429488
最終更新日:2009-03-01




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