ケータイ辞書JLogosロゴ 坂元村(近世)


香川県>引田町

 江戸期〜明治23年の村名。大内【おおち】郡のうち。引田郷に属す。坂本村・阪本村とも書く。はじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領。村高は,「貞享元年高辻帳」198石余,「天保郷帳」270石余,「旧高旧領」266石余。天保2年の家数101。「文化元年順道帳」では,本村3町余・38石余,大谷8町余・102石余,小坂7町余・78石余,ほかに新開1町余・5石余の合計24町余・271石余(田18町余・230石余,畑5町余・41石2斗余)。年貢は引田御蔵に納めた。元禄7年の御蔵結米70石余。夏成は,寛政11年銀札150匁・大麦4石4斗・小麦8斗,文化6年233匁・大麦1石6斗・小麦8斗。同年にはほかに餅1石6斗・大豆4斗を上納。文化15年浮役銀は5匁3分余。文化11年御囲籾は1石2斗(日下家文書)。阿波国産である藍が波及し,寛政4年藍作3畝。砂地で水利に乏しく,灌漑は籠池・浦田池など小溜池にたよった。水不足で稲作が困難であったことと和泉砂岩の土質が甘蔗栽培に適したことから寛政年間以降砂糖生産が急速に普及し,文化11年砂糖植付は11町5反に達した(日下家文書)。寛政4年大風雨の復旧をかねて村人足延べ1,543人が徴用された。同11年旱魃・虫害,文化11年日照,文化14年風雨の被害をうけた。救助策として大麦を支給し,翌年の難渋人は13人,飢人・難渋人に扶持米も支給した(同前)。万延元年水害では大庄屋浜垣宇一郎の「無昿録」に「大雨車軸を流し」「田畑すべて海中の如く」とあり,藩は引田御蔵より御救米を出したが,翌年「坂元・黒羽・安戸・吉田杯にも百姓共少々騒敷寄合致」と不穏な動きを伝えている。庄屋は,明和9年〜天明8年まで坂東金五郎,寛政年間坂東伝右衛門,文化6年坂東伝助,同15年伝右衛門,文政〜天保年間にかけて坂東吉太郎の名が見える。文化15年鍛冶職人には金蔵の名がある。文化5年11月伊能忠敬一行による海岸測量が行われた。高松城下から東に向かう浜街道が当村の中央を通り,大坂山を越えて阿波国に通じていた。神社は,地主社(祭神速玉男)・堕神社(祭神少彦名命)・山祇社・丹生社・大山祇社・小坂社。寺院は,真言宗虚空蔵院末の光明山観音寺。明治4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治8年の戸数130・人口597,反別27町余(梶山家文書)。「新撰讃岐国風土記」によれば,郷の南端に位置し,東は海,南は大坂,西は南野・黒羽【くれは】,北は馬宿の諸村に接し,反別は田33町余・畑7町余・山林414町余・原野15歩・宅地4町余,戸数109・人口681(男354・女327),産物は白砂糖・霰砂糖。同23年相生村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7429597
最終更新日:2009-03-01




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