ケータイ辞書JLogosロゴ 陶保(中世)


香川県>綾南町

 鎌倉期〜戦国期に見える保名。阿野【あや】郡のうち。鎌倉後期〜南北朝期の本家は皇室。建長8年3月日付讃岐国司庁宣(祇園社記/鎌遺7978)に祇園社感神院萱原神田の四至の東限・北限が陶保と接するとある。同庁宣によると,萱原神田の祇園社寄進は建久8年のこととあり,当時すでに陶保は成立していたものであろう。当保は,その名のとおり古代窯業の盛んな土地であったが,「扶桑略記」応徳3年10月20日条に讃岐守高階泰仲が御処(鳥羽離宮)造営の功により「蒙重任宣旨」とあり,この時の離宮屋根瓦を陶から調達したことが考古学的に知られている(県教委刊西村遺跡)。しかし,当地窯業も12世紀中葉以降はふるわず,13世紀にはすでに田地に開発されており(県教委刊西村遺跡),おそらく,陶保は「延喜式」に見える交易雑物としての陶器(瓦)の負担を国司が特定の田畠への課税に転化したことにより12世紀末頃に成立した便補保と考えられる。その後,嘉元4年6月12日付の昭慶門院御領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)に「讃岐国……陶保」,脚注に季氏(御宇多院の近臣で北面武士,藤原季氏)とあり,当時,御宇多院が異母妹憙子内親王に譲った讃岐国として一括記載されている皇室領の1つで,季氏が知行していた。その後,元亨2年後5月26日付の後宇多法皇院宣案(醍醐寺文書)によれば,陶保は醍醐寺報恩院門跡領になっており,聖尊法親王に譲られている。また,建武3年9月6日付の光厳上皇院宣案(同前)には,報恩院を宰相僧正憲淳に管領せしめ,陶保等の同院領を「知行不可有相違」と記されている。しかし,当時,すでに陶保は讃岐国に入部した守護細川氏被官人等によって年貢の押領を受けていたためか,同4年12月,同保等の還付について報恩院から足利氏に対して訴状が出されている(同前)。この訴えに対し,足利氏がいかに処理したかは史料がないため不明。その後,観応元年11月2日に三宝院賢俊が「醍醐寺清滝宮護摩料所讃岐国陶保」を観心院俊性に譲り(醍醐寺新要録),さらに康暦元年11月2日に権少僧都某が春徳丸(姓不詳)に「観心院坊領讃岐国陶保」などを譲っている(醍醐寺文書)ので,先の訴状の後まもなく還付されたものであろう。ところが,応永3年4月29日,足利義満は醍醐寺報恩院に対して同寺領讃岐国陶保を安堵(醍醐寺三宝院文書),それを受けて讃岐守護細川頼元の遵行状が出ているなど幕府からたびたび奉書が発せられているものの,建武年間以後,細川氏の押領はやまなかったようである。そこで,応永4年8月22日に至って幕府は讃岐守護細川満元に対し被官人等の陶保押領を停止するよう命じている。この押領の被官人等とは守護代安富氏等であることは,先の義満の安堵に続く応永5年閏4月18日付の御判御教書を安富氏が取籠め返さないことが三宝院文書目録に書かれていることからも推定できる。その後,応永32年頃までは陶保に対する報恩院の知行が続き(醍醐寺文書),また,文安6年4月時点でも,三宝院門跡管領諸職諸領目録に「讃岐国陶保領家方」として記載はあるものの(同前),陶保押領の主体は安富氏から同保所務職香西氏に変わっている。これに関して,長禄2年12月晦日香西元資書状・寛正2年2月9日僧正隆済書状・年未詳9月27日香西元資書状・年未詳11月13日香西元氏(元資)書状・寛正3年12月報恩院雑掌申状案・同4年8月19日同重申状案(いずれも醍醐寺文書)の一連の文書が残されている。これらを整理して,香西氏による代官請と押領の経緯を記そう。まず,当所は「院家譜代の私領,公武御祈仏精(聖)灯油之地」であったが,「惣じて百貫文に足らざる在所」でもあった。守護被官による代官請は,守護細川満元の代,元資の曽祖父香西平五豊前との契約によってはじまった。満元の守護在職は応永7年より同33年頃に及ぶが,長禄2年の元資書状では,豊前の代官請を同年より数えて数十年以前のこととしている。請口は60貫文,形態は豊凶等にかかわりなき「請切」の契約であった。豊前のとき,年貢無沙汰によって改替の動きがあったが,守護持之の口入によって再び契約が行われた。豊前の子息美濃守のときもなお無沙汰があったが,その実態は「地下においては押して所務を致しながら,年貢においてはかつて以てその沙汰に及ばず」というもので,まさに押領と称すべき事態が展開していた。長禄2年12月晦日,元資は親父美濃守のあとを襲って50貫文で代官職を請負わんとした。この時点で元資はいまだ「判形する能はざる」ほどの幼少であったが,この間の続柄の呼称から判断して,この時点までのいずれかの段階で,孫を嫡子にとりたてることがあったと思われる。寛正元年・2年は旱損と称する無沙汰が続き,隆済書状によれば,以前無沙汰のときは詫事があったのに,この3・4年は音信すらない体たらくであるとしている。こうした中で,寺家による補任状交付の保留,細川持賢の口入という事態が続いた模様で,寛正3年には守護の両使差遣による年貢納入督促が行われた。しかし難渋は続き,年未詳9月27日の元資書状などでは,年貢未進の原因を3か年にわたる旱損と名主・百姓の耕作放棄による荒野化,段銭国役の賦課にあるとし,自らはいわゆる守護使不入の地として取扱いを求めているが実現をみていないこと,また自らは20貫・25貫・30貫と納入を行ってきているのに寺家が60貫文の請口に固執し,これまでの未進300貫文の完済とひきかえの補任をちらつかせていることを非難し,請口を30貫文に減らしたき旨訴えている。元資の主張によれば,3か年の旱損は激しいもので,1年に50〜60人の百姓が餓死したこともあった。これはおそらく,事実を反映したものであろうが,しかし,これとかかわりなく代官請から押領へ事態が展開したことも事実であった。このようにして,香西氏の年貢対捍押領は続き,報恩院の実効支配はなくなっていく。しかし,やがて,応仁の乱後香西氏は衰退し,戦国末期に至ると,一時陶保は毛利方小早川氏の支配を受けたことがあったらしく,永禄8年3月12日付の小早川氏奉行人連署勘合状に「陶保永禄七甲子御米之内拾八石分」と見える(三原城城壁文書/広島県史古代中世資料編4)。さらにまた,江戸期になって,慶長16年12月29日付の生駒正俊知行宛行状に「すへ」(陶)の名が見える(生駒家宝簡集)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7429776
最終更新日:2009-03-01




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