ケータイ辞書JLogosロゴ 高屋村(近世)


香川県>坂出市

 江戸期〜明治23年の村名。阿野【あや】郡北のうち。高屋郷に属す。はじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領。村高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」835石余,「貞享元年高辻帳」837石余,文政9年852石余,「天保郷帳」842石余,「旧高旧領」852石余。産業は米・麦が中心であるが,丘陵地を利用して綿花栽培がみられ,寛永19年小物成帳では銀420目が上納されている。寛永年間,高屋浜が開墾されて以降何次にもわたり塩田が築造されていった。享保13年〜延享4年に上浜3町4反余・中浜2町9反余・下浜1町3反余,さらにこれらの古浜に対し宝暦8年に新浜3町1反余が開発され,10町8反余の規模をもつに至る(松山村史)。天保2年,この高屋浜に新波止を築堤しようとするが,困難を極めた(渡辺家文書)。安政2年14軒前となる。燃料が天保14年頃から松葉から石炭(ゴヘダ)焚に切りかわる。道路は神谷〜青海と大藪に至る道,さらに高屋〜林田の道が隣村と連絡する。神社は321戸の氏神として高屋神社・塩釜神社などがある。塩釜神社は松が浦塩田の守護神として尊崇を集める。遍照院は文徳天皇〜醍醐天皇の頃の勅願寺であったが,貞治年間の兵火に灰燼と帰し,大師堂が存するのみであった。3月の大師市は大いににぎわったようである。万延2年には3月21日に市立,参詣人1,000人余,売物小屋は30軒うち餅売小屋4・菓子売小屋3・饅頭小屋5・太物古売小屋3・農具小屋5など(渡辺家日記)。白峰山に谷をせき止めた鞍谷池があり,ここから明神川となって村内を通り神谷川へ注ぐ。干害などに弱く,存外生活困窮者が他村に比して多くみられ,文久2年の飢人男14・女49の計63人の救済願いが提出されている(同前)。明治4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治8年の戸数267・人口1,071,反別93町余(梶山家文書)。明治6年タカオカ学校が設立される。通信は同17年7月開局される(四国電信電話事業史)。同23年松山村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7429852
最終更新日:2009-03-01




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