ケータイ辞書JLogosロゴ 羽床下村(近世)


香川県>綾南町

 江戸期〜明治23年の村名。阿野【あや】郡南のうち。「全讃史」では下羽床村ともいう。羽床郷に属す。はじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領。村高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」1,384石余(異本では羽床村1,382石余),「貞享元年高辻帳」528石余,「天保郷帳」1,085石余,「旧高旧領」1,181石余。租税は宇多津御蔵納。文政11年の「高松藩大庄屋小庄屋姓名録」には庄屋に伝左衛門とある。寺子屋の師匠として秋山平次郎・竹内雲涯・水原亀三・山本自休翁(寛政〜享和年間),山本謙蔵(天保〜弘化年間)の名があり,弓術の遠矢の名人宮武七五郎の名もある(綾南町史)。また,研師として練達の名工であった羽床辰蔵は,近江国膳所の藩士平井市郎次と妻との密通に怒り,2名とも殺害した。市郎次の弟2人と虚無僧による文政10年讃岐国での敵討の話が「研辰【とぎたつ】の仇討たれ」として語りつがれている。「讃岐国名勝図会」に阿野郡南の産物として羽床提山の馬脳石の記載がある。江戸期に築造された比較的大きい池に宮池(水利高150石余)と堤池(同180石余)がある。明治4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治8年の戸数285・人口1,243,反別108町余(梶山家文書)。明治2年百姓たちが村吏の出納事務について疑問を抱き藩へ訴願し,執政が刺殺されたが,難民救助の名の下に銀札50貫が出されて解決した。同20年に羽床下・羽床上・牛川3か村組合立の羽床尋常小学校が羽床上村岩田武平宅で創立された。「新撰讃岐国風土記」によれば,郷の南西に位置し,東は上羽床・北,南は炭所東,西は栗熊東,北は小野の諸村に接し,反別は田149反余・畑7町余・山林原野208町余・宅地13町余,戸数246・人口1,572(男790・女782),山は高見峰,川は綾川,池は宮池・堤池,神社は奥谷社・丸川社・竜王社,寺院は本法寺・浄覚寺,ほかに地蔵堂・観音堂・市の庵,村役場・尋常小学校があり,古跡は物部只丸宅の跡など2,産物は大根,道路は栗熊西村の県道から南に入って阿波国に通じる里道がある。同23年羽床村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7430214
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ