ケータイ辞書JLogosロゴ 引田(中世)


香川県>引田町

 鎌倉期から見える地名。大内郡大内荘のうち。「平家物語」に「あくる十八日の寅の剋に,讃岐国ひけ田といふ所にうちおりて人馬のいきをぞやすめける」,「源平盛衰記」に「阿波と讃岐の境なる中山山口の南に陣をとる。翌日は引田浦,入野,高松郷をも打過て,屋島城へ押寄けり」などとある。元暦2年阿波国勝浦に上陸した源義経ひきいる源氏軍が,阿波と讃岐の境の大坂峠を越えて入ってきたのが引田の地で,ここから屋島へ向かったのである。古代以来,交通の要所であったが,鎌倉期の僧道範の「南海流浪記」にも,「同(建長元年八月)八日,立白山,至引田〈路六里〉。同九日,立引田,越阿波大坂,至紀津」とあり,引田で1泊している(群書18)。また,讃州大内郡吉田里東面山記には,西行の歌「あら鷹のしたも引田の浦なれは,おきへにかゝる白鳥のまつ」が引かれている(香川叢書)。鎌倉後期,正応4年3月28日付の亀山法皇から後宇多上皇への書状案(安楽寿院文書/鎌遺17578)に,「浄金剛院領讃岐国大内庄内〈白鳥・引田〉」とあり,浄金剛院領大内荘に属した。この書状により,引田は白鳥とともに高倉永康父子3人の知行するところとなり,嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)にもそのことが記されている。室町期には引田は塩・米・麦・豆などを積み出す港として,文安2年の「兵庫北関入船納帳」にその名が見える。入船納帳には引田から兵庫北関へ入港したのべ船数は21艘で,宇多津・塩飽【しわく】島についで多く,近くの三本松港とともに東讃を代表する主要な港であった。その地位は以後も変わらず,「後法興院記」明応2年12月3日条に「去月十九日,自児島讃岐之ヒケタヘ下着」,「南海通記」に「永正九年春,寒川氏(常隣)依大内義興ノ命,兵卒ヲ揃ヘ,引田ノ浦ニテ舟揃シテ,兵船五艘ヲ整,香西・安富ヲ牒シ合テ,兵船二十余艘ヲ以テ,引田ノ浦ヲ舟出シテ,備後ノ鞆ニ到著シ」,永禄9年9月の備中新見荘使入足日記(教王護国寺文書10)に「〈十三日〉卅二文 旅籠引田浦」,元亀4年5月15日付の木屋平刑部丞・同越前守宛て三好長治感状(阿波松家竜市氏所蔵文書/大日料10‐16)に「一昨日至引田,御屋形(細川真之)御供申,著岸候」,「十河物語」(群書21)に「天正十一年ニ讃岐ヲ仙石権兵衛尉拝領セラレ,仙石則淡州ヨリ船ニトリノリ讃岐ノ引田ニ着船」などとある。なお,この間,長享2年8月20日付の清水新助熊野旦那売券(米良文書/熊野那智大社文書)に,「さぬきの国ひけ田の筑前門弟引旦那智(知)行分」と見える。また,地内城山山上には引田城跡がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7430285
最終更新日:2009-03-01




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