ケータイ辞書JLogosロゴ 櫃石島(近世)


香川県>坂出市

 江戸期〜明治23年の村名。塩飽【しわく】島のうち。幕府領。村高は,寛文9年に田8石余・畑37石余(塩飽諸事覚),「天保郷帳」41石余。人名制をとる。宝永4年の御巡見帳によると,島まわり1里5町,東西5町半・南北15町。正徳3年の家数57・人数300(男155・女143ほか出家1・座頭1),船19艘(うち950〜750石積2・40〜5石積17),鉄砲1(与島村史)。人名は天和まで6人,以後は10人が設定され,庄屋を置いて支配をうける。島民の生活は人名として勤仕する御用舟方のほかに漁業・石材業・海運業による。与島とともに御用石帳場5か所の1つとして設定される。漁業はほかの塩飽諸島同様,周辺の好漁場を背景に盛んであり,他領漁民の入漁による紛争が絶えなかった。承応3年備前下津井四ケ浦と塩飽島漁民との間の争論に対する大坂町奉行の裁決は蛸・メバル・鯛をとる小網釣船は60艘に限る,入漁料としての所定の運上(はじめ生鯛400枚)をそれぞれ差し出すことなどであった(塩飽諸事覚)。御用舟方としての塩飽島民は貴重な存在であり,寛永9年肥後熊本の城主加藤忠広が出羽国田川郡へ改易になった際,70艘の船と水主が徴発された。寛文年間西まわり航路が河村瑞軒によって開かれると,公儀の御用米廻送にも動員された。万延元年の咸臨丸渡米の際,水主50人が徴発されるが,このうち35人が塩飽島民であった。このなかで,水主小頭の音吉,帆立仕方の治作,鉄砲方の勘次郎が当村の出身である。江戸中期以降,舟方渡世の困窮とともに人名制支配に対する百姓一揆も発生し,明和6年の一揆では,本島(丸亀市)の年寄とともに当村庄屋儀平次宅が襲撃された(塩飽海賊史)。鎮守は王子権現,この別当は本島真言宗正覚院としてあった宝珠寺である。明治元年倉敷県,同3年高知県・倉敷県,同4年丸亀県・香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治7年(一説には明治5年)那珂郡に属す。同8年塩飽島が11か村となった際櫃石村となる。同年の戸数74・人口358(梶山家文書)。同13年の漁民戸数43,鰆網の船6,釣船37(塩飽漁業慣行文書2)。明治11年宝珠寺に櫃岩小学校を開設。同23年与島村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7430302
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ