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- 平木村(近世)とは
「平木村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 平木村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 平木村(近世) 江戸期~明治9年の村名遠江【とおとうみ】国周智【すち】郡のうち気田【けた】川中流左岸に位置する駿府藩領,元和5年からは幕府領村高は,寛文13年の検地では永高表示で11貫文余,「元禄高帳」54石余,「天保郷帳」56石余,「旧高旧領」55石余山村のため元禄年間以後の耕地の開発はほとんどみられない7町6反余の耕地のうち田は38%余年貢は金納で,売物2割出・黐【とりもち】役・駒役などが賦課され,朝鮮人使節来朝時は池田舟橋役を勤めた当村の和田十太夫家は,正徳年間まで犬居山中の大庄屋の1つであり(鈴木文書/天竜市史史料編2,掛川誌稿),寛文年間の検地では屋敷地9斗余が除地となっている(役場文書)地内の社寺に若宮社・荒神社・曹洞宗新福寺がある明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県,浜松県を経て同9年再び静岡県に所属明治9年高瀬村ほか4か村と合併して宮川村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 平木村(近世) 江戸期~明治7年の村名飽田【あきた】郡のうち緑川(嘉永新川)の下流左岸に位置する村名は開き,つまり新田開発に通じると思われるが,未詳熊本藩領村高は,「寛永郷帳」204石余,「正保郷帳」も同高でうち田194石余・畠9石余,「天保郷帳」205石余,「旧高旧領」330石余「肥後国誌」によれば銭塘【ぜんども】手永に属し,高329石余,神社に権現宮がある安政3年の銭塘手永手鑑(天明村誌)では,高329石余の反別が田16町1反余・畑3町余,ほかに川口出作があり,竈数22・人数96,大小井樋13,阿弥陀仏1・天神1・荒神森12とあるなお旧緑川本流は当村で南へ曲流していたため,たびたび洪水を起こしてきた文政2年に一度開削工事が行われ,嘉永元年再び着工されて翌年に竣工,今日の流路の基となった熊本県を経て,明治5年白川県に所属同7年走潟村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 平木村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 平木村(近世) 江戸期~明治9年の村名筑後国山門【やまと】郡のうち筑後平野の南西部,矢部川下流右岸に位置する垂見村が上垂見村・下垂見村・平木村に分かれたことによって成立柳川藩領垂見組に属す「天保郷帳」では垂見村一村として記されており,「旧高旧領」でも上垂見村・下垂見村の2か村の名はあるが,当村名は見えない当村の成立は明治初年かただし,文政2年の垂見組四十丁村御物成盛掛帳に平木分として当村名が記載されている鎮守天満宮の境内には樹齢300年以上の槙の老木がある明治9年再び垂見村の一部となる現在の三橋町垂見の平木にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」