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- 三崎荘(中世)とは
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![]() | 三崎荘(中世) 鎌倉期から見える荘園名下総国のうち海上【うなかみ】荘ともいう治承4年5月11日の皇嘉門院惣処分状に九条家領として「しもつさ みさき」と見え(九条家文書/平遺3913),この時皇嘉門院聖子から兄兼実の長子良通に伝領文治2年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文には「殿下御領 三崎庄」とあり(吾妻鏡文治2年3月12日条),この時期は近衛基通の手にあったようであるしかし再び九条家領となり,元久元年4月23日付宜穐門院任子宛の九条兼実置文(九条家文書/鎌遺1448),建長2年11月日付九条道家惣処分状(同前/鎌遺7250)・建長8年8月25日付九条家重書目録(同前/鎌遺8024)などに当荘が見えるとくに元久元年の置文には藤原忠通の時に最勝金剛院に寄付された院領の1つと見えるこの間正治元年7月藤原定家は九条良経から当荘の下級所職(預所職か)を与えられ,その直後雑色光沢を現地に派遣(明月記正治元年7月25・29日条),しかしその荘園所務は難行し,同2年には定家は当所職を辞退・返還した(明月記正治元年9月10日・12月29日,同2年正月13日・8月4日条)在地領主は平安末期には片岡氏(本拠は常陸国鹿島郡片岡)であった当荘が皇嘉門院領であったのは,近隣の千田荘を本拠とする皇嘉門院判官代藤原親政の口入によると考えられる「吾妻鏡」文治元年10月28日条によれば当荘を領所としていた片岡八郎常春は舅の佐竹太郎義政に同心して源頼朝に謀反を企てたかどで当荘を召し放たれ,代わって千葉介常胤が当荘を拝領したというその後常春は三崎荘舟木・横根を返付されたが,文治5年再び知行を停止された(吾妻鏡文治5年3月10日条)その後は千葉氏一族が領有したらしいなお建久8年の香取神宮遷宮用途注進状によると当荘は作料80石,同加納横根は80石,同加納須賀三郷は70石の配分をうけたが,いずれも対捍された(香取旧大禰宜家文書/鎌遺960)建保6年11月東六郎胤頼の孫胤行は下総国海上荘に下向したまま鎌倉に帰参せず,将軍実朝は和歌を詠じて参上を催促したという(吾妻鏡建保6年11月27日条)ここに見える海上荘は正和2年4月25日の関東下知状に「三崎庄〈号海上庄〉」とあるように(円福寺文書/銚子市史),三崎荘の別称であるその後当荘を領したのは胤行の弟胤方の系統で,海上氏を称した海上氏は本庄・船木・辺田・高上(神)・松本・馬場など当荘内各地に分かれる(千葉大系図・円福寺文書など)当荘内には「海上三崎荘本庄郷之内飯沼寺」とあるように飯沼寺(円福寺)があり,その別当職には海上胤方の弟である東盛胤系統の本庄氏や海上一族が補任されていたことは建武元年6月日付良胤譲状・康安3年正月2日付宗快譲状・応永25年9月16日の上超譲状・文安3年4月13日の千葉胤将安堵状によってわかる(円福寺文書/銚子市史)また明徳元年7月4日付理慶寄進状には理慶(海上公胤)から「三崎庄本庄郷三崎村」の田地が寄進されている(平福寺文書/銚子市史)同寺所蔵の天正以前の戒体箱に「下総国海上庄飯沼山円福寺」とある(県史料金石1)本家には建武3年8月24日の九条道教家領目録に当荘が見え,依然として九条家であった鎌倉初期,鴨長明は当地にて「海上月」という題で歌を詠んでいる(鴨長明集/群書15)旭市野中の長禅寺所蔵愛染明王坐像の永禄12年9月吉日付胎内墨書銘に「三崎荘横根郷野中長禅寺」と見える(県史料金石1)常燈寺所蔵の大般若教巻408の天正4年10月17日付奥書には「下総国三崎荘海上本庄浦内松岸村」に住む権少僧都照誉が書写したとある(県史料県外)荘域は古代の「和名抄」海上郡三前郷を中心として,中世は横根郷・須加郷・本庄郷・船木などの地を含み,現在の銚子市・飯岡町・旭市の一部にかかる一帯に推定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」