ケータイ辞書JLogosロゴ 与島(近世)


香川県>坂出市

 江戸期〜明治23年の村名。塩飽【しわく】島のうち。幕府領(大坂町奉行などの支配)。村高は,寛文元年に田28石余・畑88石余(塩飽諸事覚),「天保郷帳」105石余。人名制により統治され,島内に庄屋が置かれる。岩黒島の本島としての支配を行う。宝永4年の御巡見帳によると,東西8町・南北11町,島の周囲は1里2町。人名ははじめ28人であったが,のち天和年間新加子を加え40人となる。正徳3年の家数92・人数478(男235・女237ほか出家5・道心1),山林28町余,船12(うち950〜780石積3・60〜7石積9),御改鉄砲2(与島村誌)。集落は,南に穴部,東に浦城があった。産業は漁業を主に農業・石材業・廻送業,幕末には製塩業なども盛んであった。与島石は大坂築城にも使われたが,櫃石島とともに御用石帳場が設置された。与島塩田は,天保11年備前国児島郡の鎌田卯平(一説には十郎右衛門)により11町が開墾されたことに始まる。この結果,塩浜地区は石工・塩田浜子が多く移住してきたためにぎやかとなる。島民生活の特色は,幕府の御用舟方と好漁場を背景とした漁業にある。巧みな操船・造船技術を利しての活躍は数多くみられ,寛永14年10月島原の乱にあたっては,幕府の追討使板倉重昌の命をうけて24艘の船が塩飽島から徴発され,大坂〜島原の資材の運送にあたった。また,寛文年間河村瑞軒が西まわり航路を開くにあたって,塩飽の水夫と船隻が利用されその優秀さが証明された。文久元年の小笠原開拓のため,咸臨丸に乗組員として徴発された塩飽島民42人のうち4人が当島出身者であった。東西の瀬戸の境にあたる与島〜瀬居島海域は瀬が多く,塩飽島の中でも好漁場であった。鯛・鰆・メバル・タコなど多くの魚種を誇った。このため,高松・丸亀・備前など他領漁民との間で漁場をめぐる争論が絶えなかった。元文4年〜寛保2年高松藩領民との間に起きた「かなて」の瀬をめぐる争論が最たるものであり,結果は「かなて」は高松藩領となり,境界も確定された。備前下津井四ケ浦は,承応年間以降,入漁料として生鯛400枚(のち代銀200目)を塩飽島に納めている(塩飽諸事覚)。天津神社(妙見宮)を鎮守とする。社伝に明和3年の再建とあり,元治元年石鳥居が建立される。本島正覚院末真言宗慈眼山法林寺を別当とする。明治元年倉敷県,同3年高知県・倉敷県,同4年丸亀県・香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治7年(一説には明治5年)那珂郡に属す。同8年の戸数78・人口339(梶山家文書)。同年塩飽島が11か村となった際与島村となる。同13年の漁業戸数16(塩飽漁業慣行文書2)。同20年与島簡易小学校が設置される。現在,わが国で2番目に古く瀬戸内海に2つしかない白い御影石造りの鍋島灯台は,明治5年英人技師により築造。同23年与島村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7430615
最終更新日:2009-03-01




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