ケータイ辞書JLogosロゴ 甘崎村(近世)


愛媛県>上浦町

 江戸期〜明治22年の村名。越智【おち】郡のうち。松山藩領。村高は「慶安郷村数帳」では147石余,うち田103石余・畑44石,「元禄村浦記」147石余,「天保郷帳」237石余,「旧高旧領」295石余,飛地に地獄谷がある。宝永3年に当村の本家23軒が焼失,藩から材木と大麦100俵の救助を受けた。「越智島旧記」によれば,享保年間の家数101軒,うち百姓家95軒・無給家6軒,人口は男330・女287,田14町余・畑38町余,新田畑3町余,小物成は塩浜運上・上り真綿目,定水主16軒を負担。庄屋は越智家。新田開発は,はじめは山間が中心であったが,のち沿岸部や沖合いに移り,村内の大原の農民は,瀬戸村の南方の下坂に出村をつくった。また,天保6年堤防200間余を築いて下池田新田5町余,同じ頃多々羅新田1町余が開発された。文化年間の家数266軒・人口1,239。生計は桶職・石工などの出稼ぎや海運などによった。氏神は瀬戸村の瀬戸八幡社。村内には字立山に甘崎城の守護神を祀る荒神社がある。寺院は文明年間の創建という明光寺,同寺はもと井口村にあったが,藤堂高虎の弟甘崎城主藤堂大輔が当村に移転した。ほかに藤堂大輔の位牌を安置する祖師堂などがある。明治6年愛媛県に所属。同7年荒神社の神官赤尾清知が開知校を開設,同12年明親小学校と改称し,村内の民家を購入して移転。同13年の戸数380・人口1,728。同22年瀬戸崎村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7430732
最終更新日:2009-03-01




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