ケータイ辞書JLogosロゴ 岩城(中世)


愛媛県>岩城村

 鎌倉期から見える地名。越智郡のうち。「神葉集」によると文治4年,岩城島と生名島・佐島で産する塩が放生会の舞人・楽人への手当となっている。瀬戸内海を航行する船人や歌人の心を,この藻塩焼く煙がとらえたものか数多くの歌が詠まれている。「いまの海岩木の島は我なれやあふことからき塩の身ぞ焼く 洞院左衛門督」(夫木抄)など。その後,室町初期のものと思われる5月26日付の村上図書助申状(東寺文書/大日古11‐2)によると「生□島地下者共ハ,去年皆々対治候了,石城島公文者関立を相語候て,彼城籠て候を,今月廿四日公文一類無残打殺候て,海賊一向罷籠候之際,弥此辺事無正躰候」と見える。当時岩城島周辺の島々に海賊が横行し,岩城島では公文自身が海賊と行動をともにしている。さらに天正11年ごろと推定される7月17日付の小早川隆景から村上元吉宛ての書状には,「先日於岩城島,各被遂御対談,自他之覚肝要候」(村上文書/萩藩閥閲録1)と見える。また翌年10月6日村上武吉が忽那島(現温泉郡中島町)の俊成左京進に与えた所領安堵状には,「父日向守進退江(ママ)半分無相違可有知行者也」として「岩城嶋 壱貫弐百文」などの所領が記される。以上の文書から室町期には岩城島が村上氏の支配下に入っていたことがわかる。岩城島内の耕地については不明であるが,室町期のものと考えられる後闕文書伊予国岩城島小泉一方分等天役浜数注文(極楽寺文書/広島県史資料編古代中世4)が残存する。当文書に「平松ノ浦 岩城嶋 小泉一方分天役浜数の事」さらには「并西部一松の分」とある。これは岩城島内の平松ノ浦(現在地未詳)と西部(現在の字西部の付近か)の小早川氏の庶子小泉氏の支配分で天役がかかる浜数を記していると思われる。ここには「宮にしの前 名田弘延名内 はま 五ツ……散田 貞末名内 はま 一ツ」等々と記され,浜が名田内に編入されていたことがわかる。これらの浜では製塩が行われていたと考えられ,各名内の浜数は「守恒名内 はま 六ツ」と記されるものが最も多い。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7430945
最終更新日:2009-03-01




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