ケータイ辞書JLogosロゴ 岩城村(近世)


愛媛県>岩城村

 江戸期〜明治22年の村名。越智郡のうち。松山藩領。村高は,「慶安郷村数帳」では634石余,うち田276石余・畑358石余。「元禄村浦記」634石余,「天保郷帳」854石余,「旧高旧領」960石余。参勤交代の要路に当たり,藩では港の前面に一文字波止をつくり,三浦家を宿駅の本陣とした。同家の祖は御調【みつき】郡(広島県)内の向島の地頭であったが後に没落,岩城に来住した。庄屋は,大三島の甘崎城の武将白石氏が土着し,天保10年まで勤め,以降三浦家が交代した。島民は参勤御用のほか,藩士の通行などにも漕船と水主役を負担した。南部の岩城港を中心として商業や回船業が発達し,文化13年には10軒の問屋が軒を並べた。開発は,享保のころに東三【とうさん】が新開され,天保年間には三浦氏が懸浦【かけのうら】塩田を開いた。また文化年間には南の津波島・赤穂根島でも新田が開かれている。明治4年の本田27町余・本畑84町余・代替畑5町余・新田畑30町余・塩浜新田5町余。寛政11年の家数456軒(うち問屋12軒),人口2,142。当村の耕作反別は2反にすぎず,宝暦年間には極難儀者148名に庄屋が自分麦【じぶんむぎ】を施して救済に当たり,享和3年ごろの生活困窮者は137人,万延元年では186人,明治2年では320人にも達する。小前【こまえ】百姓は地方や中国筋へ大工・石工・木挽などの出稼ぎに出るのが通例で,特に塩田の浜子が多かった。神社は郷社岩城八幡,西部八幡。寺院は曹洞宗円満寺・長法寺・祥雲寺・宝蔵寺・浄土真宗太平寺・浄土宗浄光寺など。学校は明治4年,三原(広島県)の儒者藤井修之輔を招いて長法寺に私塾知新館が開かれたのが始めで,同7年にはそのまま村立知新小学校,同19年岩城尋常小学校となった。明治5年の戸数723・人口3,376。同6年愛媛県に所属。同22年市制町村制施行後も1村として存続。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7430946
最終更新日:2009-03-01




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