ケータイ辞書JLogosロゴ 牛淵村(近世)


愛媛県>重信町

 江戸期〜明治22年の村名。浮穴郡のうち。松山藩領。村高は「慶安郷村数帳」では928石余,うち田754石余・畑173石余。「元禄村浦記」928石余,「天保郷帳」941石余,「旧高旧領」826石余。古来重信川の氾濫と干害で苦しみ,「慶安郷村数帳」にも「日損所」と記す。「田窪村大手鑑」によれば寛文8年村の西部悪社【あくしや】川近辺の地が用水不順であるとして梅本村(現松山市)に編入。天和2年には地ならしを実施し,家屋を洪水から守るため北の牛頭守【ごずのもり】へ村移りを実施し,天保8年頃に村移りを終了(重信町誌)。干害に苦しむ牛淵では重信川菖蒲【しようぶ】堰から取水していたが寛永19年の分水規定が干害の年には履行されず,北方村(川内町)と樋口【ひのくち】・志津川【しつかわ】・西之岡・田窪および牛淵の各村が元文4・天明5・明治9年などに水論を展開。浮島神社の雨乞御面渡御祭は享保17年に寺社奉行の裁定により野田村の三島神社(徳威三島宮と改号)と共有になり,毎年12月20日に実施されることとなった。寺院は道音寺で支院60を数えたと伝え,天和2年からの村移りに主導的役割を果たしたのが住職俊斉であった。寺の移転後は経塚が残された。安政5年の戸数148・人口495(南吉井郷土誌)。明治6年愛媛県に所属。同11年下浮穴郡に属し,明治22年南吉井村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7431003
最終更新日:2009-03-01




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