ケータイ辞書JLogosロゴ 裡町(近世〜近代)


愛媛県>宇和島市

江戸期〜昭和41年の町名1〜5丁目がある裏町とも書く江戸期は宇和島藩の宇和島城下の町名辰野川左岸,城下の東部に位置する西隣の本町と並列し,東は北町,南は樽屋町などに接する町名は,本町の裏町を意味する文禄4年藤堂高虎の入部以前から町方として存在したとみられるが,5丁目は藤堂氏の時代に,辰野川を山沿いに付け替えたとき,本町5丁目などとともに成立したと考えられる小字に柳横丁・六兵衛坂・御油屋横丁・富士屋横丁・山木横丁・土居横丁などがある元禄16年の城下絵図には裡町通と見える安永5年の城下絵図では,1丁目に27,2丁目に38,3丁目に28,4丁目に25,5丁目に22と合計140軒の本家が記されている5丁目には御番所があり,城下町の北部から城下に入るものは,辰野川を渡って当町・本町を経由したので,裡町は本町とともに必然的に繁栄した寺院は浄土真宗浄満寺・同宗真教寺,慶長2年当町移建の明源寺明治18〜22年宇和島を冠称同22年宇和島町の大字,大正10年からは宇和島市の町名となる明治期は本町とともに宇和島商業の中心にあった「宇和島の明治大正史」によると,明治期の代表的商家に,長滝酒造(寛文11年創業),大津屋(鬢付の製造販売),門田荒物商などをあげている昭和4年の「うわじま」によれば,個人営業の商工業者53を数え,米穀商・家具・蒲鉾製造・大工・葬具屋などが目立つ工場には山崎織物工場(明治41年創業),中平製麺所(同42年創業)がある大正年間以降,追手通・袋町などの商店街が栄えるにつれて,市街の東側に偏り当町の商業は次第に衰退し,住宅と商家の混在する町へと変貌する昭和20年の戦災には,1丁目を除いて焼失同37年の世帯371・人口1,271同41年本町追手・中央町・新町・愛宕【あたご】町1〜3丁目・宇和津町1〜3丁目となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7431062
最終更新日:2009-03-01




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