ケータイ辞書JLogosロゴ 浦山村(近世)


愛媛県>土居町

 江戸期〜明治22年の村名。宇摩【うま】郡のうち。はじめ松山藩領,正保2年一柳氏領(八日市代官所支配),宝永元年からは幕府領。村高は,「慶安郷村数帳」では36石余で畑のみ,「元禄村浦記」38石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに47石余。貞享4年の新田4反余・本畑10町・新畑2町18畝余,戸数66,うち本百姓51・名頭6・水呑百姓8・士族1,人口317。山村のため米に乏しく,立川【たつかわ】・別子【べつし】両銅山に回送する年貢米は,他所から買入れて納入していた。銅山開発初期には,銅山から天満【てんま】村への鉱石運搬道にあたるため銅山側は当村の幕府領への移管を願い上げ,宝永元年に幕府領として収公された。文政8年頃の村高47石余,新田4反余,畑11町余,戸数80・人口275,牛7・馬1。小物成は綿代・茶代・山手銀定納完料代,鉄砲役その他運上物が少しある。農間には男女とも炭焼や土佐国(高知県)から別子・立川両銅山へ諸荷物運送の賃を取っていた。草刈場850町歩は幕府領・藩領7か村より入会で,年貢米は陸路1里余りを天満村の浜まで運び,船積みして江戸まで運送した(村々様子大概書)。「役用記」によれば,幕末異国船の来襲が多くなり,幕府領であった川之江村に城山台場を築くため村々から上納金を集め,当村は嘉永6年に4両1歩2朱を差し出している。慶応4年正月,川之江征伐の土佐藩兵によって占領され土佐藩の支配下に入った。明治3年8月当村は他の14か村とともに西組となる。同年12月15日土佐藩川之江陣屋が廃止され,東京政府の地方庁である倉敷県(のち岡山県)への合併が決定,しかし,旧幕府領の村々の猛反対により同4年7月,改めて丸亀県(のち香川県),同年11月松山県,同5年2月石鉄県になり,同6年愛媛県に所属。「宇摩郡地誌」によれば,村の広さは東西50余町・南北100余町,戸数83・人口314,牛10・馬1,物産は楮・櫨実・棕櫚皮・芋塊・蕃薯・菜種子・茶など。明治22年土居村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7431066
最終更新日:2009-03-01




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