ケータイ辞書JLogosロゴ 小部村(近世)


愛媛県>波方町

 江戸期〜明治22年の村名。野間郡のうち。松山藩領。村高は,郷帳類には見えない。波方【はがた】村の枝村と思われ,元禄12年には村高39石余,田3町余・畑10町余,「野間郡手鑑」によれば,元文年間の家数40軒・人口230,船数28,嘉永3年の家数172軒・人口298。人口増は漁業の発展による。当村の開祖とする木村新兵衛重基は,加藤嘉明に仕えた淡路島(兵庫県)の水軍の将で,文禄4年当村に来住して付近を開発,漁法を改良して人口増加に努め,慶長5年に没している。しかし,村内にある墓標の菊川系図などによると菊川高清も淡路水軍を率いて河野氏を助けた功により当村の大部分の地を領して居住し開発,永正5年81歳で没し,その子高信(天文6年没),その子氏慶(永禄9年没)ののち破れて民間に降り,岡城の森一族もまた土着している。庄屋初代が菊川与市兵衛で慶長2年に任命されたが,寛政4年以降波方・九王【くおう】・山之内村各村庄屋の預りとなり,嘉永6年から明治4年までは従来当村の預りであった宮崎・森上・馬刀潟【まてがた】村の3か村とともに紺原【こんぱら】村井手久五兵衛の預りであった。安永2年,高機の創案で有名な菊屋新助が当村に生まれた。当村は今治【いまばり】付近の網漁業発祥の地といわれ,藩の特産品である伊予煎海鼠ではその品質・量とも最高で,天保年間近隣19か村の煎海鼠上納の請負人は菊川長五郎,当村の割当量は350斤であった。下の洲漁場をめぐって寛政年間に来島【くるしま】漁民との間に争論がおこり,弘化2年に至るまで数回の争いがあった。化政期の村方の支配組織は庄屋伊平太(九王村),組頭伝兵衛のほかに彦八・万治ら漁頭4人がいる。神社は白玉神社,同社は波方玉生八幡神社の末社で波方村にあったが,元禄年間に当村に移された。ほかに観音堂。寺子屋は天保年間の菊川長五郎,安政年間の神官平田氏に続き,明治維新頃は菊川伝九郎・中江正常らが教化にあたった。明治初期公立小部学校を設置。明治6年愛媛県に所属。「野間郡地誌」によれば,戸数257・人口1,277,商船1・漁船110など計169,漁獲高は4,000円。明治22年波方村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7431113
最終更新日:2009-03-01




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