ケータイ辞書JLogosロゴ 大町村(近世)


愛媛県>伊予三島市

 江戸期〜明治22年の村名。宇摩郡のうち。はじめ加藤嘉明領,寛永13年川之江一柳直家領,同20年からは幕府領。村高は,「慶安郷村数帳」では621石余,うち田369石余・畑252石余,「元禄村浦記」621石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに624石余。享保6年の「大町村明細帳」によると,家数128軒・人口682,うち医師1・桶屋2・大工3など。年貢米は浜から新居浜へ送り,別子【べつし】銅山と立川【たつかわ】銅山へ移している。文化5年頃の村高は624石余,家数129軒。同10年別子銅山の稼人の人数が減少し銅の生産量も大幅に減ったために,幕府領の村役人に百姓は農間期には出稼ぎに行くよう通達がある。同11年検見役人の入宇の際には当村の弥太郎らが付き添っている。文政3年村内の荒地に植えてあった松林の年貢が増やされた。同8年頃の村高625石余,田21町余・畑18町余,家数185軒・人口934,牛83・馬100(村々様子大概書)。天保元年別子銅山では飯米に困ったため当村の50石をはじめ宇摩郡内の幕府領の村々は合計500石を前貸しした。幕末に至り,異国船来襲に驚いた川之江代官所では,文久3年に郡方役人とそれに準ずる者を海岸防禦筋用掛に任命し,急事の場合には民兵を指揮する手段をとった。これに任命された当村の庄屋大西三右衛門は天満【てんま】番所詰であったという。明治6年愛媛県に所属。明治初年の「地理図誌稿」によれば,戸数215・人口989,牛100・馬3,商船2。耕地反別は,田21町余・畑18町余,歳収貢米174石余。産物は,藍500貫余・綿50余・芋塊1万5,000貫・砂糖8,000斤・櫨実2,200貫。「宇摩郡地誌」によれば,村の広さは東西12町余・南北13町。地勢は「耕地ハ卑湿ノ地アリト雖トモ概ネ高燥ニシテ水利甚乏シク常ニ旱災多シ,又暴風稼ヲ害スルノ変アリ,国道村ノ中央ヲ貫キ運輸便利ニシテ薪炭魚塩ニ乏カラス,人家字西村・宮西・中通リ・高野・関谷・高塚ニアリ」。地味は「田其土黒赤ニシテ埴シ砂ヲ含メリ其質悪シ稲麦甘蔗油菜藍ニ宜シ年ニヨリ旱損暴風ノ患アリ,畑其土薄黒ニシテ壚シ砂礫ヲ混ス其質悪シ菽麦甘蔗蕃薯ニ宜シ其他樹芸ニ宜シカラス年ニ寄リ旱損暴風ノ患アリ」とある。戸数221,うち男農業166・工業3・商業5・雑業42,女農業2・雑業3。人口1,037,牛71・馬5,船は日本型200石未満50石以上商船1・50石未満商船2。物産は砂糖1万6,000斤・芋塊1万1,000貫・薪2万貫。明治22年豊岡村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7431224
最終更新日:2009-03-01




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