ケータイ辞書JLogosロゴ 岡村(近世)


愛媛県>関前村

 江戸期〜明治22年の村名。越智【おち】郡のうち。松山藩領。村高は,「慶安郷村数帳」では93石余,うち田41石余・畑51石余,「元禄村浦記」93石余,「天保郷帳」99石余,「旧高旧領」101石余。戦国期の村上水軍の末裔たちと思われる人が松山藩主から山番を命じられて入島し,のち各地からの移住により開発も進んだが,寛永11年創建の善照寺の記録には,貞享年間以前はまだ無人島に近い状況であったという。その後,人口も増加し,享保年間頃の「越智島旧記」では田2町9反余・畑11町余,新田畑6反余,家数118軒,うち百姓家85軒・無給家21軒・隠居家12軒,人口711。寛政11年の「越智島人家問屋船漁師書抜帳」では家数184軒,うち問屋1軒,人口889,漁師45人,漁船35・商船6を所有。明治4年には田13町余・畑38町余,新田畑1町2反。岡村港の一文字波止めは享保年間につくられたが天保13年の暴風で破壊され,藩からの年賦償還の借財により弘化元年波戸30間と20間を築き,明治初年と12年に修築延長している。沖乗り帆船航路に当たるため,元文5年井村八左衛門により観音崎に灯台が築かれ,灯明料は宮浦村の大庄屋菅家が負担した。藩は対岸の安芸国大島下島(広島県豊町)御手洗【みたらい】の繁栄をみて岡村島の西側白潟【しらかた】に港町の建設を企画し,村民を移住,また近島からの来住もあって正徳3年には年寄がおかれ,文政年間の末期には波止めができ,弘化年間頃には全盛期を迎えた。しかし,港は北西風の大波をまともに受ける悪条件のため繁栄は永続きせず,急速に衰退した。幕末の村民は,夏は東に隣接する小大下島で産出する石灰焼で,冬は杜氏の出稼ぎで生計を立てた,また漁業も盛んで慶応2年,大浜の漁民と争った時の記録に百姓漁師23人・無給漁師21人・無縁漁師37人の計81人の漁師が見える。安政年間,流罪となった松山藩士山口某が寺子屋を始めた。明治9年久阪千四郎が土蔵を使って岡村学校を開校した。神社は姫子【ひめこじま】神社,同社は宝亀10年の創祀と伝え,弓祭の神事を奉祭する。明治6年愛媛県に所属。同9年の戸数409・人口1,891。同17年暴風雨と高潮により,学校2棟のほか12戸,納屋など10棟が流失,22戸倒壊,船舶の破壊148隻,死者5人の被害を出した。同22年関前【せきぜん】村大字岡村,小大下の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7431246
最終更新日:2009-03-01




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