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- 河原町(近世)とは
「河原町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 河原町(近世) 江戸期~明治7年の町名江戸期は府中町,明治2年からは武生【たけふ】町の1町大門町の東,馬場通りの東裏に位置し,主に組屋敷の区域であった町名は,このあたりが日野川の河原であったことによるものであろう馬場通りと並行に,南の方籏町へでる小殿町があった同町はなまって小鳥町とも呼ばれたまた,その東には北から帆山寺,天王社・八幡社があった天王社は天保13年大門町へ移転した帆山寺の門前には中世の名号石がある大門町を東へ進み,帆山寺の門前を通ると,帆山の渡しに出たまた北へ通り抜けのできない半入筋(通称般若辻子),村国へ行く道には清水があり,堀端へでたそこは中筋・桶屋筋などと呼ばれ,これらの通りの更に東に新屋敷が江戸末期にできた嘉永4年の町中家別(南条郡誌)では,町外本家48軒・地借86軒庄屋共,門前9軒・浜町44軒・渡守4軒とあるこの数字は新河原町・浜町・漁師町などを含み,本多家家臣は含まれていないようである明治7年には136軒(同前)同年吾妻町の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 河原町(近世) 江戸期の町名黒羽城下の1町川原町とも書いた(慶応元年絵図)町人地黒羽城の北東麓,松葉川に沿い,同川を隔てて南に前田町と接する「創垂可継」には「この町人別しかのみにて,地所は堀之内地面に御座候,田畑山林河原町分は御座無く候」とあり,地籍上は堀之内村に属した同書によれば,文化年間の戸数20明治維新後は堀之内村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」