ケータイ辞書JLogosロゴ 鴨部荘(中世)


愛媛県>玉川町

 鎌倉期から見える荘園名。越智郡のうち。建長7年10月,伊予国国衙田所木工允紀が提出した伊予国神社仏閣等免田注進状が初見文書。当文書の寺田のうち「八幡三昧堂 六丁鴨部庄仁申付由申之……佐礼寺 九丁二反二百二十四歩 同鴨部」と見え,また封戸田の項には「兼信 二丁八反九十二歩,上部庄ニ有」とも見える(国分寺文書/編年史2)。さらに建治2年9月の同国衙田所の得分免田注文には「紺樒(掻カ)六反十分 上部卿(郷カ)也」とある(鎌遺12478)。鴨部荘は古代の鴨部郷が荘園化したものと考えられ,鎌倉期に八幡三昧堂および佐礼寺の寺田15町余と国衙在庁田所氏の免田六反余が存在していることから,鴨部荘には国衙領が混在していたと言える。正安2年3月18日の六波羅探題から鴨部荘地頭代に宛てた召文によると「伊予国三島大祝安俊代安胤申,鴨部荘住人祐賢濫妨」とあり,鴨部荘が大山祇神社領であることがわかる(三島文書/編年史2)。荘内の名田については,延元2年11月19日,南朝方の散位平貞政名主職安堵状(大山積神社文書/編年史2)から知られる。本文書には「伊予国鴨部庄内延松貞光両名田畠山林等名主職事……依為三島社大祝大夫安顕本領支証分明,兵部卿親王宮御知行之刻令安堵」と見えて,護良親王の安堵にならって延松・貞光両名らを大山祇神社神主大祝安顕に安堵している。両名については年未詳後(閏)9月6日の散位行政書状(三島文書/編年史4)で大山祇神社神主大祝新左衛門に対して「延松・貞光両名名主職半分事可渡申」と伝えている。貞光名は正安2年8月18日の六波羅(三島文書/編年史2)によると,散在名であったようである。南北朝期にはこの地域は戦場となっており,暦応元年11月25日には伊予国御家人鳥生貞実らが北朝方の軍勢とともに「自鴨部中村焼払所々,攻入府中」(小松邑志/大日料6-4)という状況であった。文明13年6月23日,河野教通は「鴨部領家半分」などを鳥生雅楽助に宛行っている(三戸文書/編年史4)。ついで永正5年6月12日の正岡経成田地寄進状(仙遊寺文書/編年史4)には「奉寄進佐礼寺(現玉川町別所の仙遊寺)夜灯田之事,合一段 在所小鴨部ひの口貞永名也」と見え,この田地は「経成相伝の私領」と記される。小鴨部は現在の玉川町大字小鴨部の地に比定できよう。また天文21年11月7日に河野通宣は野間郡の宅並二神衆中に宛てて「鴨部郷新田分,為代所新田弥九郎知行分之事申付所也」(二神文書/編年史4)と伝えた。鴨部郷田分が,現在の今治市大字小泉・片山の字に見える新田に比定できるならば,鴨部荘(郷)の荘(郷)域は現在の今治市西部にまで広がることとなろう。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7431586
最終更新日:2009-03-01




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