ケータイ辞書JLogosロゴ 菊万荘(中世)


愛媛県>菊間町

 鎌倉期から見える荘園名。野間郡のうち。初見は寿永3年4月24日の源頼朝下文(賀茂別雷神社文書/編年史2)。当文書では「可早任院庁御下文,停止方々狼藉,備進神事用途,加茂別雷社御領庄園事」として,後白河院の下文の内容を遵守すべきことを命じた賀茂社領42か所のうちの1つに「伊予国菊万荘・佐方保」が含まれている。弘長2年7月26日付の後嵯峨上皇院宣(鎌遺8834)には,「当社領伊予国菊万荘……預所職事,女房上総別納宛給之後代々宮仕之輩相伝知行……,而久継社務之時,被付菊万庄於社家畢」とある。当文書から菊万荘が元来は別納の地として,「宮仕之輩」が相伝していたものであり,賀茂社領となったのは神主賀茂久継以降であることが知られる。次いで同年9月5日の後嵯峨上皇院宣(鎌遺8872)では,賀茂社の菊万荘に対する権利を確認し,「所詮,有限之御年貢,社役不可存懈怠,其外細事,為預所進止可致其沙汰之由」として預所の任務を定めている。これ以降賀茂社の菊万荘に対するこの権利は,代々神主家に安堵されている。さらに永享12年8月22日の神主森富久契状(森家文書/編年史4)では,「菊万庄所務職事」について「小倉名加而河野得居宮内大輔(通敦)ニ預申之処実正也」として,菊万荘年貢を「京定分公用弐拾貫文」で請け負わせている。伊予国内では文正元年から,応仁の乱へと続く河野氏内部の抗争が生じており,同年6月6日の後花園上皇院宣(伊予国菊万荘并佐方保古証文/編年史4)では「就当国錯乱,神田等有名無実候……差下社家雑掌,全直務可専神事」とある。この年に菊万荘は得居家の年貢請負を廃して社家直務となっているが,文明13年9月3日(賀茂別雷神社文書/編年史4)に神主森貞久は再び「菊万荘所務職事……本家領家小倉名共河野得居伊勢守仁預申之処実正也」として,年貢京定45貫文で請け負わせている。得居家の菊万荘に対する年貢請負はその後も継続され,天文9年5月3日の越智(得居)通清が神主森定久に宛てた願文(賀茂神社文書/編年史4)には,「菊万庄御公用銭,於家督存者,如前々四十余貫進納可申事」として,得居家の菊万荘に対する年貢請負を家督として継続しており,得居家が当荘の年貢請負いをした際の年貢銭は賀茂社から現地へ使者を派遣して請け取らせていることがわかる。天正12年6月,毛利氏は伊予平定の軍を派遣した。同年と推定される6月14日に毛利輝元が家臣の飯田弥七郎(元覚)・沓屋源四郎(元綱)に宛てた感状(萩藩閥閲録132・136)には,「今度於与州遂辛労之由候,殊菊万表動之時敵一人討捕」とあり,菊万の地が戦場となったことがわかる。天正13年8月に伊予国は小早川隆景の領有となるが,翌年10月23日付の正親町天皇綸旨(萩野文書/編年史5)では,「賀茂社領伊予国菊万庄段銭分事,従往古為競馬料被仰付候」として菊万荘段銭を従来どおり社納するよう命じた。同年12月,豊臣秀吉は上賀茂社へ2,572石の朱印地を与え,諸国の荘園の整理を行ったことにより,菊万荘は賀茂社領としての意味を失った。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7431601
最終更新日:2009-03-01




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