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- 北小路(近世)とは
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北小路(近世) 江戸期の地名八代【やつしろ】城下八代町のうちの武家地八代城本丸の北,内城のうちに位置する城の北側を囲む出丸内側に配置された侍屋敷小路主任務は北の丸の防衛と東大手門(畳櫓門)の守備で,大身の侍屋敷15軒が配属された(八代市史)西は塩屋口冠木門を境に西小路が接し,東は長丁濠端丁に境する地内の浅井神社は通称八王社といい,寺院には竜王寺・泰勝院がある八王社の地は古代妙見神渡来の時の寄港地としての伝承をもつ浅井の津跡で,目標とされた八王社の樟の大樹は樹齢1,300年余といい,尊崇される同地にあった古来の八王社が,元和年間の八代城新築に伴い,本城の艮【うしとら】の鬼門にあたるところから八代城の鎮守社となり,かたわらに真言宗(のち天台宗)の竜王寺を建てて神宮寺とした境内には妙見社大祭に奉仕する人馬の祓をする八ツ縄(索)の池,別称塩の井がある往時航海のための給水源とされた清泉の跡である祭礼日は11月15日で,八代城下の武家・町家を問わず,子どもの七五三の祝はすべて同社に参詣した臨済宗泰勝院は,寛永9年細川忠興が八代入城直後,父幽斎の菩提所として八代城下出丸西北隅に建てた寺正保3年松井興長が八代城に入り,同寺は熊本の立田山麓に移り,細川家の菩提寺泰勝寺となり,その跡地は松井家の菩提寺同宗宗雲寺となった寺号は興長の祖父正之の法号による忠興が先君織田信長の追善のため城下平川原町に建てた曹洞宗泰巌寺が延宝5年雷火のため焼失したので,同年宗雲寺を興長の父康之の法号による春光寺と改めて古麓の地に移建し,泰巌寺を当地に再建した信長公供養塔がその跡地に現存現在の北の丸町のうち |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」