ケータイ辞書JLogosロゴ 串(中世)


愛媛県>弓削町

 鎌倉期から見える地名。越智【おち】郡のうち。弓削島【ゆげしま】荘は鎌倉期以降,東寺(京都市)の荘園であったが,領家(東寺)と地頭との間の紛争が続き,乾元2年正月18日,両者間に和与が成立した。この結果弓削島の田畑・山林・塩浜・網場などの3分の1を地頭分,3分の2を領家分とした。その際に作成されたと推測される弓削島荘領家・地頭相分絵図(東寺百合文書と/日本塩業大系古代中世1)によると,「串方 領家分三分一」と記される。つまり串方とは弓削島南部の島の3分の1を占める地域で,全域が領家分となっていた。応長元年7月日の弓削島荘田畠・山林・塩浜以下相分帳(同前)の畑地分の記載のうちに「武貞 一反廿歩付西 垂水 山三分一付西 クシ 同(塩)穴四一分」「相二郎 小付西 ヒキノ 山三分一 串 同(塩)穴七」「成正 小四十歩付西 中畠 山三分一付西 串 同(塩)穴四一分」「朝二郎 一反六十歩付東 串 同(塩)穴二一分など」とある。穴というのは製塩用の塩浜のことで,畑と燃料用の山林とを一体的に組み合わせて百姓たちに経営させているもので,串にはこのような塩穴が多く存在したことがわかる。正和2年4月の弓削島荘公田方田畠塩以下済物等注文(東寺百合文書と/日本塩業大系古代中世1)に「田地所当米事 一所小 串恒光四斗代 一所一反 串恒光三斗代 一所半 串貞正四斗代」と見え,串の地が名に編成されている。さらに同年同月に作成された弓削島荘名田方田畠塩以下済物等注文(東寺百合文書と/日本塩業大系古代中世1)には「一 小人数」のうちの串分には源次郎入道・平内・刑部以下39人が書き上げられ,分塩1人宛1俵が課せられている。建武元年11月14日の僧良秀書状(東寺百合文書し/日本塩業大系古代中世1)には,「東寺御領伊与国弓削嶋内半分串方預所職事,寺家政所十月五日補任御状,同十六日到来」と見え,地頭との和与後に東寺領となった弓削島3分の2のうちの半分にあたる串方の預所職に良秀が補任されている。串方は,南北朝期にも弓削島荘を地域的に二大区分する,その1つとなっている。暦応5年3月23日の法橋祐舜弓削島荘雑掌職請文(東寺百合文書し/日本塩業大系古代中世1)には,「請申東寺領弓削嶋雑掌職事 右,当嶋半分鯨方,去年拝領仕候畢,残半分串方,一円拝領」とあり,東寺弓削島の鯨方と串方両方の雑掌に祐舜が補任されている。貞和4年12月6日には,東寺は領家分鯨方所務職を弘雅律師に,串方所務職を定潤僧都に与えた。同日付の定潤弓削島荘串方所務職請文(東寺百合文書め/日本塩業大系古代中世1)によると,「一,年貢塩三百五十俵 大俵淀津定……春年貢拾貫文……一,庄務始,守護方沙汰等䉼足事,当所年貢内,以公私得分,可充其足……一,検断事,任道理,憲法為先,敢不可行非儀,於検断物参分之弐者,可執進寺家矣,一,庄家警固事,於細々警固者,可為給主沙汰若海賊等乱妨及重事時者……随寺家御計」等々が記される。これらから所務職の内容に検断権と荘家警固までも含まれることがわかる。それは瀬戸内海に浮かぶ島にとって海賊の横行が重大な驚異であったことが知られよう。貞和5年12月の串方散用状(東寺百合文書よ/日本塩業大系古代中世1)によると,「塩七十七俵二斗,代拾壱貫五十文俵別百四十二文,船賃七貫九百五十文 現俵運上時代銭 已上拾九貫文,麦四石五斗 所務得分兵粮下行,米三石二斗九升 所務得分兵粮下行」とあり,塩が代銭納されており,さらに船賃をも百姓から徴収していることがわかる。康永3年2月3日,串浦沙汰人百姓中にあてた船木弾正忠代信妙召状(東寺百合文書と/日本塩業大系古代中世1)に「弓削島所務事,軍忠ニよてあつけ給わる間,御知行のところに,東寺のさしやう(雑掌)を入たて,しよむに相随,ねんくを弁之由,其きこゑあるてう,地下のさた人百姓のけつこうか,しからハ百姓等かニゑなしたるへきうゑ,さいくわたるへきなり」とあり,小早川氏の庶流船木氏が軍忠によって串浦を預けられたのであるから,串浦沙汰人百姓中が東寺の雑掌を入れ,その所務に随うは罪科であると通告している。前年の9月25日,小坂鶴夜叉丸代所信政書状案(東寺百合文書と/日本塩業大系古代中世1)の端裏書に「所弥次郎状小坂鶴夜叉丸代串浦分」と記され,所信政が小坂左近八郎に串浦の引渡しを求めている。所務職・年貢未進などについての相論が起きていたことがわかる。弓削島南部に久司【くじ】山があり,付近には大くし畑・小串さかいまでなどの小字名が残る。現在の弓削町下弓削付近に比定されよう。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7431721
最終更新日:2009-03-01




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