ケータイ辞書JLogosロゴ 鯨(中世)


愛媛県>弓削町

鎌倉期から見える地名越智【おち】郡のうち応長元年7月の弓削島荘田畠・山林・塩浜以下相分帳(東寺百合文書と/日本塩業大系古代中世1)の田地分に「正作 クシラ一反三百廿歩付東」,畑地分には「助真 三反八十歩付東 大マヤマ 山三分一付中 クシラ 同(塩)穴六二分 有重 六反四十歩付北 高松 山三分一付西 クシラ 同(塩)穴九一分」など,除畑分に「薬師寺 八十歩クシラ」と見える現在の弓削【ゆげ】島の北端,鯨にある鯨薬師が鎌倉期に見えるのは興味深い包末等常公田方と称される22名の名であり,これらが鯨の耕地部分にも散在していたこと,また塩田が含まれていたさらに正和2年4月の弓削島名田方田畠以下済物等注文(東寺百合文書と/日本塩業大系古代中世1)の「一,小人数」の部分には「鯨分」として清左近・清太郎・惣太郎・大夫太郎ら27人の小籠塩を生産する百姓が挙げてある彼らは鯨に田畑を有する百姓であったのであろう南北朝期,弓削島荘が鯨方・串方と所務が地域的に二分されるが,鎌倉末期にはすでにその萠芽があったとみられる乾元2年正月の地頭・領家間の下地中分では,弓削島北部の3分の1が鯨方と称され,領家分(釣浜の網庭は地頭分)となっている(同前)暦応3年正月23日,鯨方の所務職を祐舜が請負っているが,その所務の内容は検断権と荘家警固であった南北朝期には当荘の所務は串方・鯨方に二分された所務を請負った祐舜は守護細川氏に属して軍功をたて,暦応5年3月23日には鯨方と串方の所務を拝領している(東寺百合文書し/日本塩業大系古代中世1)鯨方の所務職は貞和4年12月6日には権律師弘雅が補任されているが,ここには所務職の内容として,荘家警固のことがあげられており,当時瀬戸内海の島嶼の1つであった弓削島において海賊の乱入が大きな関心事となり,雑掌はその防衛のために武力と資力をもつ者であったことを示している貞和5年12月の鯨方算用状によると,同年3月26日,東寺側の使者が尾道【おのみち】(広島県)に下着以後の算用をしているが,納入分として塩66俵半・代銭9貫527文とあり,また納麦4石8斗・納米2石6斗は兵粮のため下行されている(東寺百合文書よ/日本塩業大系古代中世1)現在の弓削島北端部の地
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7431734
最終更新日:2009-03-01




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