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- 中山(中世)とは
「中山(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 中山(中世) 鎌倉期から見える地名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中山(中世) 室町期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中山(中世) 鎌倉期から見える地名小県【ちいさがた】郡依田荘のうち鎌倉期には村名,戦国期には郷名で見える承久4年2月21日茂木知基は子息一王に所領を譲ったが,その譲状案に「壱所 在信濃国依田庄内,五箇村〈飯沼・中山・直(真力)□・内村・腰越〉副渡故鎌倉右大臣殿御下文」と見える(茂木文書/信史3)源氏と深い縁をもつ八田知家の子知基が,源実朝から当地を賜ったことが知られる下って戦国期天正6年の下諏訪春秋両宮造宮帳に「依田庄内中山之分 合籾拾八俵壱斗〈此代三貫七百卅文〉」と見え,永正3年の諏訪社下社春宮御柱造宮料を課されている(信叢2)天正6年の下諏訪春宮造宮帳によれば春宮外籬の造営料を負担しており,天正7年の下宮春宮にも「一 二之御柱 依田庄中山之郷 正物七百文 代官 源衛門尉 取手 竹居祝 右之外五百文 手師小祝 竹居祝被官」と見える(同前)現在の丸子町御岳堂の中山付近に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中山(中世) 鎌倉期から見える地名薩摩国入来【いりき】院のうち元亨2年3月13日の入来院内清敷北方水田検注帳に所見(入来文書)現在の入来町浦之名字中山に比定される浦之名のほぼ中央に位置し,海抜250~300mの丘陵地帯である同地は地勢上一般に中山丘陵地帯と通称する谷川らしい小流もなく,水田は丘陵間峡地の湧水利用のものだけで,いわゆる迫田ばかりである元亨2年の検田時の田積は7反30代余,在家平均1町2反の63%,長享~延徳年間頃のものと推定される算田日記(同前)では中山門の耕田8反6畝,門平均2町6畝の42%であり,水田適地の少なかったことがわかる江戸期は入来郷領主仮屋から大隅国蒲生郷へ通ずる主要街道がこの中山を通じていたため,毎年晩秋に鹿児島藩への貢納米1,200石を運ぶ駄馬が,亭々たる松並木の続くこの中山街道を往復していたが,現在では町内の過疎地になっている... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中山(中世) 鎌倉期からみえる地名石見国美濃【みの】郡納田【のうだ】郷のうち益田【ますだ】荘に属す現在の三隅【みすみ】町岡見地区延慶3年11月3日付「尼良円永安兼祐後家譲状」(吉川家文書/大日古9)に「ますたのしやうのうちすつなかやまのてんはく」とみえるのが初見嘉暦元年12月10日の「石見永安別符以下地頭職分文」(同前)には,「中山寸津地分二町二反大一方一丁一反小」とある永禄13年2月9日「益田藤兼所領目録」(益什34)によると,中山は付近の周津【すづ】・美磨博【みまさか】・小弥富【こいやとみ】とともに,藤兼の時代に益田氏の知行となったと記されている中山は岡見地区の中心,現在小・中学校・郵便局など公共機関がある... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中山(中世) 戦国期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」