ケータイ辞書JLogosロゴ 浜村(近世)


愛媛県>菊間町

 江戸期〜明治22年の村名。野間郡のうち。松山藩領。村高は,「慶安郷村数帳」では947石余,うち田703石余・畑243石余,「元禄村浦記」947石余,「天保郷帳」1,213石余,「旧高旧領」1,023石余。当村には野間郡代官所の番所があり,元締や手代など4人が別府村(大西町)以西の12か村を管轄。また,村方ではあったが宿場に指定され,本町・浜本町・上町・下町・北町・西町・中町・新町などの通りがある。港としても重要で瓦船の出入が盛んであり,問屋・商人・職人などが多く,町並みを形成していた。江戸初期の庄屋は二宮家で,義氏の時,長野家と交代。寛文10年没の平兵衛は浦手役を兼任し,その子経氏から代々半左衛門を称して大庄屋を勤めることが多かった。天明4年6代目半左衛門経明は,村の東西南北に一字一石塚4基を建て,村の安全を祈願。「野間郡手鑑」によれば元文年間の村勢は田63町余・畑27町,新田畑4町余,家数225軒,うち本門122軒,無給門101軒・猟師2軒,人口1,121。「加茂神社社記」によれば,天明8年代官の定めと意見が合わなかったため高田【こうだ】・池原・長坂村とともに西条・小松藩領に逃散した。文政4年の「根方帳」では本門339軒・人口1,920。天保9年には百姓門211軒・無給門117軒・無縁門41軒,そのほか32軒。嘉永3年の家数401軒・人口1,688。天保12年商人株の大改めでは,商人株を有する者は村内に15名,銀貸2名,酒造株1名。慶応3年には製瓦の燃料の松葉問屋が5名居住。菊間瓦の納入先は,文政元年京都御所,弘化2年大山祇神社,文政3年〜安政元年松山城,明治元年〜4年広島藩10万枚,明治16〜18年皇居14万枚など。松山藩主の参勤交代は三津浜から出港,菊間沖を進んで第一夜を岩城島で迎えたが,当村は水主役を負担。代償に漁業権を補償された。船稼ぎも盛んで,文政4年の「根方帳」では28反帆の回船を筆頭に,数灰【すばい】船・木船・瓦船・肥船など商船30隻,ほかに橋船(天馬船)28隻。天保4年波戸を移築。天保7年村内の蔵から西浜手の間に長さ90間の波止,左脇に長さ25間ほどの新地開発を申請。文久3年当村に大砲2門を備える砲台を建設することになり,用係に長野半左衛門ら6名,各戸から1名の人夫計1,413名が動員された。諸工事の完了した元治元年には松平定昭の見分をうけている。松山藩の長州征伐では郷夫17名が割り当てられ,交戦状態の時はさらに151名の動員が決定していた。神社は加茂神社・八幡神社・厳島神社・荒神社・砥鹿神社。八幡神社は宝徳2年得居氏の勧請と伝える。また厳島神社には永禄11年以降の記録がある。寺院は遍照院日輪寺,同寺は弘仁6年弘法大師により諸人厄除けのために開山された寺で,明応4年の得居通敦の寄進状をはじめ,それ以降の古文書,応永6年起筆の書写本大般若経を蔵す。明治6年愛媛県に所属。「野間郡地誌」によれば戸数507・人口2,567。明治5年学制発布直後に八番小学校開設,同6年菊間学校となる。同8年北浜学校開設,同20年同校は菊間小学校に吸収され,菊間尋常小学校が発足。明治7年菊間郵便取扱所開設,同19年局舎を新築。同17年に台風と高潮による被害にあった。同22年菊間村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7433159
最終更新日:2009-03-01




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