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樋口村(近世)


 江戸期~明治22年の村名...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7433237]
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角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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樋口村(近世)

江戸期~明治5年の村名樋ノ口とも書く県北部,荒川中流右岸の低平地に位置し,御正【みしよう】用水が通る大里【おおさと】郡御正領のうち古くは御正郷新原荘に属したという地名の由来は,水田灌漑のため荒川から引水する万吉【まげち】堰用水の堰口に当たっていることに起因し,用水の樋の口の意味を持つという(地名誌)地内には安土桃山期と推定される館跡があり,中世には深谷【ふかや】城主上杉憲盛の臣新井豊後守某の居館だったと伝える初見は慶長9年辰3月2日,折井市左衛門次忠宛て成瀬小吉・大久保長安の連署による武川衆御重恩之覚に106石7斗8升,「樋口之郷内」とあり,これによると106石7斗8升は甲斐武川【むかわ】衆の1人折井政次の御預り御料地で,残余は武川衆の知行地であること,また樋口が郷名で記されていたことがわかる(新編武蔵)のち折井・曽我両氏および忍【おし】藩領,忍藩領は元禄年間折井氏,正徳元年旗本安部氏知行となる東南に15町離れて新田があり,延享元年検地して幕府領村高は「田園簿」では406石余,うち田247石余・畑159石余,「元禄郷帳」では281石余,「天保郷帳」では358石余万治3年,当村から春野原【しゆんのはら】村を分村宝永3年の村況は家数58・人口287,桶屋2・大工1,馬39畑作は大麦・小麦・大豆・小豆・アワ・ヒエ・芋・木綿・菜・ソバ・モロコシ等を作り,農間稼ぎに男はむしろ織り,女は糸とり仕事年貢米は新川【しんかわ】河岸から津出し,江戸へ送った寺院は新義真言宗慈眼山観音寺,鎮守は七社明神社で,春野原村の鎮守も兼ねたほかに稲荷社(平山文書/武蔵国村明細帳集成)高札場は村の中ほど名主平山家は新井豊後守の子孫で,現在も近世文書を多数所蔵し,住居は国重文明治4年入間県に所属同5年春野原村と合併し,大里郡樋春【ひはる】村となる現在の江南町大字樋春の北部に当たる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

樋口村(近世)
江戸期~明治9年の村名筑後国竹野郡のうち耳納【みのう】山地中央部の北方,巨瀬【こせ】川右岸の微高地上に位置するはじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領寛保3年には本庄正兵衛が100石を知行(給知高帳)諏訪組に属す村高は,「元禄国絵図」94石余,「在方諸覚書」の古高100石,「天保郷帳」96石余,「旧高旧領」104石余宝暦年間頃の役高203石,庄屋は中徳・陣内両村庄屋も兼任,久留米より5里(在方諸覚書)寛政元年撫6斗1升,免率9ツ7分3厘,人数87,馬4(筑後上三郡取調手鑑)嘉永元年頃の作柄は「凡そ田方5俵半・粟5俵」(廻村書留)文化4年の耕地は田12町余・畑田2町余・畑1町余(農政農民史料集)水利は大石・長野水道で,貞享元年樋口村溝筋(同村より下り新溝)が完成(吉井町誌)豊後街道の中道通り沿いの村で,文化7年まで上三郡(竹野郡・生葉【いくは】郡・山本郡)受持の郡奉行出張所である役家があった(公用見聞録)文化年間に流行病で多くの子供たちが死亡し,村落貧窮の一因となった(廻村書留)天保3年の亀王組一揆では,庄屋宅が打崩しにあった(久留米藩百姓一揆ニ関スル調査)氏神を祀る地主宮,清水寺のものと伝える観音堂,神体が楠の竜神,天神がある(寛延記)また一向宗浄厳寺は大永元年開基と伝える(寛文10年久留米藩寺社開基)明治9年鷹取村の一部となる現在の田主丸町鷹取の一部にあたる...

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樋口村(近世)
 江戸期~明治9年の村名...

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樋口村(近世)
 江戸期~明治8年の村名...

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樋口村(近世)
 江戸期の村名...

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樋口村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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樋口村(近世)
江戸期~明治8年の村名磐井郡のうち北上盆地の南端部,北上川右岸の氾濫原に位置する地名の由来は,用水施設にちなむと考えられるが不詳仙台藩領はじめ中里村の端郷であったが,寛永18年検地により分村して成立(安永風土記)村高は,寛永検地18貫余(田2貫余・畑16貫余),「元禄郷帳」172石余,「安永風土記」29貫余(田6貫余・畑22貫余),「天保郷帳」297石余,「旧高旧領」295石余天正18年太閤豊臣秀吉の奥州仕置のため来村した浅野弾正少弼長吉は,配志和神社の社地である当村など6か村をめぐる訴えを決裁している「宝暦風土記」によれば,人数108(男62・女46),馬11明和9年の家数27(封内風土記)「安永風土記」によれば,一円蔵入地,人頭27(うち禿1),家数26,人数104(男59・女45),馬9,舟3(大刈子1・刈子1・小舟1),神社は稲荷社,産物は麻明治元年沼田藩取締,同2年前橋藩取締,同年一関藩領となり,以後一関県を経て同4年水沢県に所属同8年川辺村の一部となる...

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樋口村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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樋口村(近世)
江戸期~明治8年の村名樋ノ口村とも書く(小倉藩人畜改帳)豊後国国東【くにさき】郡香々地【かかじ】荘のうち慶長5年豊前小倉藩細川領,寛永9年豊前竜王藩松平領,正保2年幕府領となり,松平木付(のち杵築)藩預地,元禄2年日田代官支配地,正徳2年からは日向延岡藩領見目手永に所属(小倉藩人畜改帳)元和8年の村高107石余,家数19・人数43,牛5,蔵納地と熊谷半左衛門知行地(同前)村高は「正保郷帳」80石余,うち田59石余・畑20石余,旱損がち「見稲簿」93石余延享3年の「国東郡寅物成割付写」84石余,「天保郷帳」94石余,安政元年の「延岡藩高辻帳」84石余,「旧高旧領」94石余明治4年大分県に所属同8年唐櫃【からひつ】村とともに香々地村に合併現在の西国東郡香々地町大字香々地のうち...

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樋口村(近世)
江戸期~明治9年の村名遠江【とおとうみ】国豊田郡のうち敷地川に中沢川が合流する地点付近に位置する地名は,地内を天竜川の支流が流れていたことによる(掛川誌稿)寛文13年向笠上村から分村して成立幕府領,のち掛川藩領村高は,「元禄高帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに6石余「掛川誌稿」によれば,戸数4・人口12台地上にあるので水田はなく,茶・甘藷・麦などの畑作のみ神社は向笠上村の六所明神を祀り,寺院は見取村の曹洞宗竜光庵を檀那寺としていた(掛川誌稿)明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県,浜松県を経て同9年再び静岡県に所属明治9年大海村ほか2か村と向笠五ケ村出作場が合併し,笠梅村となる現在磐田【いわた】市の大字笠梅の通称地名として残る...

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樋口村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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