ケータイ辞書JLogosロゴ 法華津浦(近世)


愛媛県>吉田町

 江戸期〜明治22年の村名。宇和郡のうち。はじめ宇和島藩領,明暦3年からは吉田藩領。永長郷に所属。村高は天正検地では213石余,「慶安郷村数帳」では290石余,うち田258石余・畑32石,「元禄村浦記」「天保郷帳」ともに290石余,「旧高旧領」595石余。「郡鑑」によれば承応元年の家数85軒,うち水主39,人口262,苫役234帖,物産は茶・楮・麻苧・真綿・漆など。寛永3年,当浦の庄屋新蔵人は奥浦の南間口を開削。寛文6年の「網安代之覚」では網5帖・網代6か所・網船6・小船19とあり,寛文年間の「西海巡見志」では「湊有,西風悪し,百石以上の船廿艘かかる」とあり,家数90軒,船35艘ですべて漁船,加子110人,うち役加子39人。枝浦に与村井浦が見えている。文化5年幕命をおび,この地の沿岸を測量した伊能忠敬の日記では,「法華津枝浦与村井浦を歴て法華津本浦迄,漸九ツ半後に着,止宿,一同法華津浦庄屋祐左衛門於宿」とある。安政5年,宇和島藩領皆田【かいだ】村および伊賀上村との間に,村境紛争が生じた。直接の原因は法華津側が間地【あいち】(入会の草場)の生木数十本を伐採し,畑地を開拓したことによる。この地は宇和島・吉田両藩によって呼称を異にし,従来から所属が判然としなかった所である。結局代官らの仲介によって開拓の畑地は草場に戻すこと,伐採した樹木は法華津側に渡すことで落着した(覚書)。しかしその後も明治5年,同11年と紛争を繰り返した。幕末の家数151軒,うち百姓は101軒,牛14・馬5。神社は三島神社・日吉神社。明治6年愛媛県に所属。「宇和郡地理全志」によれば戸数188・人口1,066。同7年地蔵堂に開蒙小学校開校。同11年東宇和郡に所属。明治22年玉津村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7433440
最終更新日:2009-03-01




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