ケータイ辞書JLogosロゴ 宮浦村(近世)


愛媛県>大三島町

 江戸期〜明治22年の村名。越智【おち】郡のうち。松山藩領。村高は「慶安郷村数帳」では324石余,うち田238石余・畑86石余,「元禄村浦記」324石余,「天保郷帳」689石余,「旧高旧領」691石余。当村は,広大な大山祇神社の境内と楠の社叢,同社の門前町,南部の三島江を干拓した新田と宮浦本川に沿う水田地帯から成る。「越智島旧記」によれば,享保年間の家数250軒,うち百姓家168軒・無給家20軒・隠居家27軒,人口1,143,宮数24社,田24町余・畑90町余,新田20町余・新畑7町余,大三島宮の社領は田畑6町,社人は大祝以下33人。貞享2年台村を分村(越智島旧記・越智郡地誌)。大山祇神社の春の例大祭は大市日と定められ,貞享年間は4月17日から1週間,正徳年間には10日間,安永年間には15〜30日間にわたって開催された。この例大祭は大三島市(御国潤い)と呼ばれ,他郡・他藩からの見物客を動員するため,歌舞伎芝居,将棋・双六などを賞金を出して行う盤将会,富くじ,松山藩の余剰物資をさばく入札興行などが行われた。「越智島旧記」によると,歌舞伎芝居が初めて行われたのは正徳元年で,興行は藩の直営,松山の町年寄で市場方の薬屋五兵衛が扱い,芝居小屋をつくり,時局物などを演じた。五兵衛は安芸の宮島(広島県)に倣い,恒久的繁栄をはかるため藩営の新地町の開発を計画し,安永4年大山祇神社の横を流れる河川の河床を埋め立て,川筋を変更して安永7年完成した。また,埋められた水田2町余の替地として肥海【ひがい】村に肥海新田を開発した。藩は,新しい参道に建てられる町家に補助金「御垂【おだれ】銀」を与え,安永9年には38軒が進出している。また,同時に大三島各村から人夫を動員して,宮浦新田の開発が行われ,安永5年に完了した。寺院は神宮寺・大通寺・教善寺・東円坊など。明治6年愛媛県に所属。同7年大三島郵便所開設。同9年曙学校開設,同18年に校舎を新築。洋風でガラス窓入りの校舎は,当村の近代化を象徴していた。明治13年の戸数456・人口2,203。同22年宮浦村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7433686
最終更新日:2009-03-01




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